前回(9月)から始まった「千葉〜銚子編」の2回目は、ほぼ全編、千葉市の市街地を巡る(^^)。 2日目のコースは、前回の「千葉寺」の続きから始まり、「胤重寺」「千葉氏館跡(地方裁判所)」「千葉神社」「宗胤寺」「来迎寺」「大日寺」「千葉山」と、怒涛の快進撃だぁ〜!(笑) そして夕方から、おもむろにコースは北上。千葉県の最東端・銚子市に入り、さらに東端の太平洋に面した「犬吠崎」にまで行って、2泊目を迎えるっ(^O^)。 <「千葉寺」、2> 前回の続き(^^ゞ。地図A。前回は境内に入って、中央の大イチョウと奥の本堂まで案内した。 境内の中央が大イチョウ、真ん中の通路の先が本堂(パノラマ4枚・180度以上)
今度は周囲をご案内。まず左手の方に行くと……、
この「坂東29番札所」には、今でも崇敬者・巡礼者が多く訪れ、この後に行く太子堂が建てられたのも、弘法大師1150年後遠忌記念という事だった。
これにはガス抜き効果があったとか、笑われまいと役人の気を引き締める効果もあったとか聞くけど、身分統制の厳しい時代に、こういう事が出来たのみならず、公然と「地方の慣習」とされているのは非常に珍しいそうだ(^_^;)。 この辺りは江戸にも近いから、もしかしたら庶民の意識を探る上で、地域限定的に幕府も半ば容認していたのかな(^_^;)。 時代劇だと、「下々の声めでたからず」とかいう台詞がよく出るけど、どうやってそれを知るのかな、とはよく思う(笑)。 落語みたいなオチになるけど、誰かの悪口を言おうと覆面して参加したら、自分の事も言われてたとか、自分の事じゃないけど、自分にも思い当たる事があると反省するなど、そういう効果もあったかもしれないね(笑)。 この地域は、博物館で見た限りでは、佐倉あたりと同じ領主だったような気もするが、佐倉と言えば佐倉宗吾(木内惣五郎)(^_^;)。 後で説明するけど、千葉六党の「東氏」から分家した「木内氏」というのがあるから、千葉氏の遺臣だったとも見られている。 「相馬日記」の高田與清は、文政元年に、「千葉笑」を取り上げ、 「こは人々のおこたりをいさむるわざなれば、筑波嶺のかがひなどには、いといとまされる風俗といふべし」と、ずいぶん高く評価している(゚.゚)。 小林一茶も文政6年に、 「千葉寺や 隅に子どもも むり笑ひ」と詠った。
ド〜ン! 月星紋と九曜紋!
この二大紋、平忠常の建立と伝えられる「東光院」に行った時は、市街を離れてる事もあって「おおっ(*o*)」という感じだったが(九曜ではなく七曜だったが)、千葉市の街中に入ると「当たり前」って感じに豊富すぎて、この先逐一は出さないので、ご了承を(^^ゞ。 ところで本堂にも懸けられた、この「海上山」だが、これは千葉常胤の六男・東氏から出た「海上氏」と関係があると思われるものの、実は「海上氏」じたいは、その前の流れにもあった(^^ゞ。 それは、常胤の叔父・常衡から出ている。 (千葉)忠常┬常将−常永┬常時(常晴)−常澄−(上総介)広常 └胤宗 └常兼┬常重−常胤−┬胤正 └常衡(海上) ├(相馬)師常 └(東)胤頼−重胤┬胤行 └(海上)胤方 常衡から出た「海上氏」については、次回、銚子に行ってからも話そうと思うが、この「海上」の名乗りは、常衡のさらに二代前、すなわち「常永(常長)」の「海道大将軍」から関係が深いとも見られている。 「海道」の名乗りは、常陸から奥州にかけて勢威をもった、常陸(繁盛流)平氏のものだったが、これと縁戚関係にあった清原氏も、これを名乗っている。 清原氏は前九年の役で、その功績を源氏の頼義・義家父子以上に評価され、俘囚でありながら鎮守府将軍に上り詰めた一族である。 千葉常兼は、この清原一族と姻戚関係にあり、常重の母が、この清原氏の出であるとも言われる。 その後、世の流れは常胤流の一族に向き、「海上」の姓は「東氏」の系統に引き継がれたわけだが、そういうわけで、房総平氏の全体にとって、地理的な広さからも歴史的な長さからも、とても馴染み深い名なのだ(^^)。 このように、千葉氏が海や水運と繋がりの深い氏族であった事は、この千葉においても、また次回になるが、銚子あたりに行っても、共通項として感じられる(^^)。
↑この左の樹木が茂った辺りには、山岳信仰系の碑が立ち並んでいた(^^)。
ちなみに、この千葉寺が今回の南限で、これより北に向かって行くが、実はさらに南東に行くと、8月レポ「忠常の乱」で出した「東光院」がある。 南にいくと、原氏の「小弓城」と「生実城」(どっちも読みは「おゆみ」(^^ゞ)がある。 今回は千葉氏のみで一杯なので(笑)、原氏の城跡にも、そのうち又来たいと思う〜♪ <胤重寺> ↑に行く前に、実は「七天王塚」を探した。これは将門伝承地の一つで、守谷で出会ったのと同じく、将門の七人の影武者の墓と伝わる所だ。 一箇所だけでなく点在してるとも言うので、周囲をグルグル廻ってはみたのだが、どうも千葉大学の構内にあるんじゃないかと……(^^ゞ。地図では、この辺りのようだ→地図B どうもここも元は、やはり古墳があったようで、2002年の発掘調査の結果、それまでは城の土塁跡と思われていた塚が、今では古墳と捉えられているようだ。 調査では、28mの前方後円墳が発見され、今でも石室が残ってるそうだ。出土したのは、人骨と金の首飾り、鉄ヤジリ、馬具(轡)、須恵器など。 古墳は他の箇所にも見つかり、この台地に古墳群があった可能性もあるそうだ。 てわけで、取りあえず千葉大(医学部)を写しとく(パノラマ3枚・ほぼ180度)
城は樹木の影にチラと見える(パノラマ2枚) この辺↓(^^ゞ
で、この階段は結局下りて(^^ゞ、→こっち側に歩いて行くと、通り沿いに「胤重寺」がある。 さらに拡大した地図D←「市立郷土博物館」とあるのが「千葉城」のある位置。「胤重寺」は↓の通り、通りに面してるが、ちょっと奥まって見えるので、車だと通り過ぎて気づく感じ(^^ゞ。
「胤重」というのは、千葉常胤の三男、武石胤盛の子の名である。 ここで、ちょっと長いけど、千葉氏の全史をざっと説明させて貰いたい(^^ゞ。
(千葉)忠常−┬−常将−−常永−┬−常時−−常澄−−(上総)広常(上総介) (千葉介) | | @ | └−常兼−−常重−−常胤−┬−胤正−−−−┐ | | | └−胤宗−−元永−┬−基永(野与・多名・大蔵) ├−(相馬)師常 | | | | └−頼任(村山・金子・山口) ├−(武石)胤盛 | | | ├(大須賀)胤信 | | | ├−(国分)胤通 | | | └−(東)胤頼 | ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ @<平安末〜鎌倉中期>(平忠常の前と後数代については、2009年8月(忠常の乱)を(^^ゞ) 頼朝の厚い信頼を得た千葉常胤には、主要な6人の男子がいた。千葉・相馬・武石・大須賀・国分・東を名乗り、「千葉六党」と呼ばれて、子孫もさらに分家しつつ、後々まで惣領家の千葉氏を囲んで結束が強かった。 そのため、房総の広い地域に根を張って大きな力を保ち、奥州征伐以後は、東北にも子孫が多く広くに及んだ。 房総では、相馬氏が相馬御厨を、武石氏が千葉庄の武石郷を、大須賀氏が千葉庄の田部田郷と香取郡の大須賀保(成田市)を、国分氏が葛飾郡の国分郷(市川市)を、 東氏が木内庄と立花庄(香取市・東庄町など)と三崎庄(銚子市・旭市)を得て、それぞれ子孫が存続・繁栄した。 さらに奥州では、相馬と武石は陸奥の行方郡に、大須賀氏は岩城郡に所領を与えられ、相馬は二家に分かれて、一方が奥州相馬氏となり、武石からは亘理氏・涌谷伊達氏が出た。 この六家のうち、「武石氏」を名乗った武石胤盛(常胤の三男)のさらに子の胤重の墓が、この「胤重寺」にあるというわけ(^^)。
千葉常胤の6人の息子については、頼朝の長男・頼家が誕生した時の話が、特に目出度い話として残っている。 出産の三夜を小山朝政、五夜を上総広常が勤め、千葉常胤は七夜を勤めた。 常胤の妻(秩父重弘の娘)が膳を供え、長男の胤正と次男の師常(相馬)が甲を、三男の胤盛(武石)と四男の胤信(大須賀)が馬に鞍をつけて引き、五男の胤通(国分)が弓矢を、六男の胤頼(東)が剣を持って庭に並んだ様子を、頼朝が「特に感じ入った、みな容儀が神妙で壮観だ」と喜び、列席者も称賛した。 たったこれだけの事なのだが、この「目出度さ」の裏には、ずいぶん色々な経緯があり、少なからず千葉氏もその渦中にある(笑)。 頼家が生まれたのは、1181年8月12日である。 前年の1180年は、ほぼ一年じゅう大変な年だった(^_^;)。 1180年は、4〜5月に源頼政が平家打倒の挙兵をしたが、失敗して死去した。 伊豆の頼朝は、6月には画策を開始したが、思うようには味方が集まらない(^_^;)。。 平家方に動きが察知されていたと思われる中、ついに8月、平家方の山木兼隆の邸を襲って血祭りに上げ、三浦や和田と示し合わせて挙兵したものの、一週間後には石橋山で大惨敗(^_^;)。。 房総に渡って、千葉・上総に助けられて以後は、10月、武蔵でも河越・江戸・畠山などを帰服させ、富士川の合戦で平家を打ち破る事ができた(^_^A)。 ただ、この時の頼朝の挙兵は、京側からは「謀叛」と受け取られていた(^^;)。。 11月に常陸の佐竹を討ち、12月までに阿野全成(今若)・新田・里見らの合流・帰服に成功し、ようやく年末までに、(評判はともかく)勢力的には安定を見ることができた(^_^A)。 ……そんな最中に頼朝の妻・政子が妊娠したのだ。これまでも女の子(大姫)は生まれていたが、今度は男子が生まれるかもしれない! 「良かった良かった(TOT)」と御家人たちは喜んだ。自分たちもますます結束すべく、御家人同志の婚儀も大ブーム! 1181年、3月には政子の着帯の儀に、千葉常胤の妻(秩父氏)が帯を作り、息子の胤正やら孫の成胤が持参した。 はしゃいで道路を真っ直ぐに作る工事などして、鎌倉は出産祈願モード一色に染まった。 千葉胤正(長男)・胤頼(六男)は、身重の政子が住居を移すたび、イチイチお供して守った。 そういうムードになるのは、まだまだ内にも外にも不安が一杯だったからだ(^^;)。。 外的には、負けた平氏が、奥州の藤原秀衡と何やら交渉してるようだし、 内的にも、上総広常の態度がデカイとか、義経がKYだとかで、やたら緊張状態が無くも無かった。 そんな微妙な空気の中で……頼朝の浮気が発覚( ̄▽ ̄;)。。。 御家人同志の婚姻の中でも、大きな役割を占めていたのは、政子の実家・北条氏である。 あとはご存知、政子が頼朝の愛妾を討ち、頼朝がそれに怒って政子に同調した家臣に報復し……という事になるのは、無事に頼家を出産した後ではあるが、頼朝・政子夫婦の傍に連れ添っていた連中は、さぞかし気を揉んだに違いない。。 そんなさなか、子沢山一家が、勇敢に育った坂東男子を大勢連れて、仲良く勢ぞろい(^^)。 こんな他愛もない図が、当時の頼朝と鎌倉に、どんだけ望ましい絵だったか(笑)。
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ |A ├−成胤−−胤綱−−時胤−−頼胤−┬−胤宗−−貞胤−−氏胤−−−−−−┐ | | | └−常秀−−秀胤 └−宗胤−−胤貞(九州千葉氏) | | ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−┘ 頼朝に誅された上総広常の子孫には、千葉氏に帰属して上総にいたと見られる印東氏がいたが、これも三浦氏とともに討死し、上総氏で残ったのは、角田氏だけになった(;_;)。 また頼胤の時、元寇への対処として九州に行かされた千葉氏は、元の脅威が去った後も、三度目の来寇に供えて九州に留まらされる事となったため、頼胤の嫡男・宗胤から「九州千葉氏」となり、房総の千葉氏惣領については、宗胤の弟・胤宗の家系が引き継いだ。 九州に行った、この宗胤の墓にも、この後に行くので、ちょっと覚えといてねっ(^^)。 やがて南北朝の動乱を迎えると、房総の千葉氏(胤貞)は南朝に、九州の千葉氏(貞胤)は北朝にそれぞれついたため、両家は争い合わねばならなくなったが、やがて房総の千葉氏も北朝に降参したため、房総でも存続が許された。 しかし貞胤の子、氏胤は、南北朝の動乱のために京で生活しており、房総に戻ってくると、従来から在地に根を張っていた、千葉六党の子孫など多くの家臣を統率する力に乏しく、直臣団として新興の家臣を取り立て、力を惣領家の千葉氏に集中しようとした。 これが、後の戦国期までに新興勢力を生む土壌になったとも見られ、高城氏や、その上司格の原氏などの台頭のキッカケにも繋がった。 ふぅふぅ、やっぱ長いんで、あとBとCは、後ろに少しづつ廻すね(^_^A)。
何だか福島県の相馬中村神社を思い出した(笑)。 お寺には千葉氏に関する案内は無いが、「戸塚派楊心流」の祖の戸塚英俊と二代目・英美の墓が案内されていた。 柔術の確立は戦国期の竹内流が初めで、そのうち楊心流は、江戸初期に肥前(長崎県)の医師・三浦楊心が始めたと言われる。 安部観柳−江上司馬之介武経−戸塚彦右衛門英澄−同彦介英俊−同彦九郎英美と伝わるが、このうち「戸塚流」は幕末の英澄・英俊を祖とする。 英俊(〜1886)は柔術界を風靡し、明治18年(1885)に千葉県柔道師範、その子の英美(〜1908)は千葉市通町現中央区中央)に町道場を開いた。 <千葉氏館跡(千葉地方裁判所)> ↑というのは、ガイドなどには載ってないかもしれない(^_^;)。 正確に言うと、「千葉地方裁判所・簡易裁判所・検察審査会・家庭裁判所」という事になる。 前回出した「千葉城」は、今では「原氏の支城があった跡」と見られており、千葉氏の本館があったのは、こちらだろうという事なので、その跡地にやって来てみたわけだ(笑)。 地図E←ほんの僅かな距離なんだけど(^_^;)、現在地が「千葉地方裁判所」で、いま天守閣の建ってる「千葉城」があるのは、右下の「市立郷土博物館」ね。 地方裁判所に来てみたからって、↓の通り、敷地ギリギリまで建物があって、石碑や案内板の一本も建てられてないから、あまり来て見てみる必要あるとも思えないけど(笑)。 道路のカドに面した裁判所(笑)(パノラマ2枚)
↑まず左の方に行ってみようか(^_^;)。 ズーーーーーッとビルが建ってる(パノラマ4枚・180度以上)
今度は右の少し細めの道に入ってみる(^_^;)。 やっぱりズーーーーーーッとビルが(^_^;)(パノラマ4枚・180度以上)
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-−┘ |B └−満胤−┬−兼胤−┬−胤直 | | | └−胤賢(賢胤)−−自胤−−盛胤(武蔵千葉氏) | └−(馬加)康胤−−孝胤−−勝胤−−昌胤−−利胤−┐ | ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ が、上杉氏憲(禅秀)の死後、千葉氏は持氏に降伏しため、持氏が今度は室町幕府と対立した時も、満胤の孫・胤直は持氏の味方をしたが、途中から上杉方への味方に戻った。 しかし胤直の叔父・馬加康胤は、持氏の子・成氏(古河公方)がまた反乱を起こすと成氏側に転じ、甥の胤直を攻め殺したため、胤直の弟・胤賢の子・自胤らは、上杉氏の力を得て武蔵に落ち延び、「武蔵千葉氏」を興して抵抗した。 馬加康胤については、満胤の弟か子か判らなかったが、どうも「子」が正確なようなので、そのように系図に書いた(^^ゞ。 また馬加康胤の跡は、別系からまた跡を継がれたようになってる系図もあるようだが、博物館では「馬加氏の子孫」としているので、馬加氏の跡にそのまま繋いである(^^ゞ。 この時期から馬加千葉氏は、千葉城ではなく、本佐倉に本拠を移したようだが、時期がはっきり判らない。 康胤か孝胤の頃からとも思われるが、勝胤の頃には確定的に思える。 いずれにせよ、ここを去った理由に、戦国期の動乱が絡んだ可能性ならありうるが、少なくても千葉裁判所が立ち退きを迫ったわけではない(爆)。←当たり前(笑) <千葉神社> さて千葉城の周辺から、さらに少し北に向かうと、「千葉神社」に出会う(^^)。地図F これまで南から北に、「千葉寺」「千葉城」「胤重寺」「千葉神社」までの範囲なら、まぁ歩いて廻れる距離かな〜という気がするし、駅だと南から北に、「本千葉」「千葉中央」「千葉」の範囲で、どの名所も駅から近いので、どっかで降りて一箇所だけ見る、というのもOKだろう(^^)v。 この後に行く、「大日寺」「来迎寺」「宗胤寺」も、本当はこの「千葉神社」や、今行った「地方(家庭・簡易)裁判所」のそばにあったんだが、戦災で焼けちゃって、さらに北の方に移転してるの(p_;)。 だから全部を歩いて……となると、ちょっと大変な感じもするから、上手に鉄道を利用しながら、が良いと思う。 でも今、この千葉は県庁所在地として、また東京にもっとも近い大都市として、テンヤワンヤの状態なので(笑)、静かなお寺は、少し遠い所にある方がいいかもね(^_^A)。 「千葉神社」に到着!(パノラマ4枚・180度以上)
↑実はここ、正式な入口じゃないみたい(爆)。でもメイン道路に面してるので、多くはここから入るかも(^^ゞ。
この「千葉神社」は、神社としての方向性が「方位除」と凄くハッキリ打ち出されていて、さすが平安時代以来と伝わる神社、という感じを濃厚に受ける。 ……実は、神田明神でも、やはり方位除や人形祓などが行なわれているし、これから入ると出会うが、ここでもやはり菅原道真を祀る神社があるなど、種々の将門絡みの神社と同じ雰囲気を感じる(^^ゞ。 上の獅子像は、昭和4年(1929)に建築されたそうだが、これは神田明神にある獅子像とよく似てる感じがする(^^ゞ。(2007年9月<神田明神つづき、いよいよ参拝(^^)>内) 今回は撮れなかったが、実は千葉城のすぐ近くに、「御茶ノ水」と呼ばれる一郭があって、博物館で見たビデオでは、確か千葉常胤が頼朝にお茶を入れて差し上げた、という伝承をやっていた覚えがある(^^ゞ。 お茶は無理でも、湧き水で頼朝の咽喉を潤した事ぐらいはあったかもしれないね(^^)。 いずれにせよ、この千葉界隈は、東京の神田界隈と通じる空気が濃厚だ!(笑) 地図G←社と周囲を最大限に拡大。このように大通り側から横入りも出来るが、神社の正面を張っているのは通町公園がわで、公園から入るとこう展開している。↓ 「千葉神社」正門「尊星殿」(パノラマ2枚)
何だか竜宮城みたいよ(゚.゚)。 では入る前に、本佐倉を本拠地に定め、その後の千葉本家格として定着した馬加千葉氏について、まとめておこう。 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ |C └−親胤==胤富−−邦胤−−重胤(俊胤?) C<戦国期〜江戸初期> (BとCの背景については、「千葉県の動乱」vol2を(^^ゞ) 馬加系となった後の千葉氏は、古河公方よりだったから、上杉氏や里見氏との戦いにおいても、後北条氏側として一貫してるようで、第一次国府台合戦の時には千葉氏は参加してないが、家臣の高城氏が後北条側だったのも、千葉氏との連携があったと思われる。 本拠だった千葉には、原氏が多くの城を作っており、あたかも辺り一帯が原氏の下克上に取って変わられたような印象があるが(笑)、これは原氏が、真里谷武田氏(は小弓公方・義明に肩入れした)と抗争していた事も要因ではないかと思われる。 第二次国府台合戦の2年後、上杉謙信の来襲によって、特に臼井城の原氏が苦しめられたが、この時も千葉胤富が原氏を助けて、謙信軍を打ち破っている。 このように終始、後北条勢力に属した千葉氏なので、秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅びると、領地を召し上げられ、最後の当主・重胤は領地もないまま、江戸で病死。こうして千葉氏は終焉を迎えた。(その後こんな伝承も、2008年11月<茨城県取手市「龍頭山・常圓寺」>)
以下は、左の写真の左が「乾宮」で亥と戌、中央が「兌宮」で酉、右が「坤宮」で申と未。 右の写真の左が「震宮」で卯、中央が「艮宮」で寅と丑、右が「坎宮」で子。↓ まとめると、こんな感じ↓o(^^)o↓
干支や方位(九星もあるよね(^^ゞ)とは別に、病気の部位やお願い事別にお祈りしても良さそうだねっ♪ じゃあじゃあ、いよいよ境内に入ってみよう!(パノラマ4枚・180度以上)
さっき道路に面していた鳥居は↑コレ
妙見菩薩は北極星(北斗七星とも言われる)を神格化した菩薩の総大将で、「尊星王」「北辰菩薩」とも呼ばれる。 元は、古代中央アジアの砂漠地帯に住む遊牧民族が、北極星を信仰していた事を始まりと見る。 遊牧民は移動を常とするため、不動である北極星を、方位を見定める重要な星と崇めた。この時点では、「人の生死に関わる」という、古代的な信仰だった。 やがて中国に伝わり、道教・儒教・陰陽道と習合し、御霊神などにも変化した。 漢民族によって、五穀豊穣を司る農耕神の役割も帯び、特に道教の影響で、地鎮神・鎮守神の役割が加わり、やがて仏教と習合して「妙見」と名付けられた。 日本に伝来した当初は、帰化人が定住した畿内を中心に信仰され、北辰祭が盛大に行なわれた。 帰化人の関東移住(開発のため)は、600〜700年代には始まっているから、関東にも早く伝わった可能性もあり、関東には、近畿からの遊牧系帰化人(渡来人)や遊行僧によってもたらされたと考えられる。 が、朝廷が北辰祭を禁じ、天皇によって行なわれていた時期もあるようだ。 平安期も800年代になると、天台宗が分かれて、園城寺の寺門派によって「尊星王法」が編み出され、国家的な災厄除を行う行事になった。 真言宗では北斗七星を妙見菩薩とした。天台宗が円形の曼荼羅を描くのに対し、真言では方形に描くらしい。 平安後期には、三井寺で国家安泰の法が執り行われた。
拝殿は二階建になっており、階段を上がって二階にもいける(上下パノラマ2枚)↑
二階の拝殿(パノラマ4枚・180度以上) 平将門が信仰したとされる神に、「一言主」と「妙見」があると伝わるが、ここでは古伝にのっとって、「一言妙見」への「となえことば」が書かれていた。 二拝二拍手の後、合掌して、 福=除死定生(無病息災) 禄=滅罪増福(厄除開運・商売繁昌) 寿=益算延寿(聡明長寿) これを三度となえ、さらに二拍手、合掌一拝だそうだ。 この「千葉神社」に妙見が祀られたのは、1127年に千葉常胤の父・常重が、居館を大椎から千葉に移した時を発端とする。 大椎から千葉に来たについては、常重のさらに父・常兼を主体とする記述も見掛けるが、まぁ「父子で来た」と見ればいいだろう(^^ゞ。 関東では、妙見信仰が広まる最中の900年代半ばに、平将門の乱が起きた。 この乱が関東人に与えた影響は非常に大きく、後の武士団を形成するにあたって、千葉氏は関東に広まった将門伝承を取り入れ、伝来当初は農業の豊穣神であった妙見菩薩を、武士団の「弓煎神」とする事で、その信仰を伝えていったと考えられている。 なので、的を矢で射る神事などが、今でも千葉県の各地に残っている。 このように将門と妙見の合体の形は、千葉氏から出た相馬氏が特に濃厚に引き継いでいるが、千葉氏が妙見を信仰したのは、伝承によれば先祖・良文以来となる。 同じ良文流でも、必ずしも妙見を祀っているとは限らないとも言われる一方、良文以来と伝わる地域もあるそうだ。 いずれにせよ、上のAで書いた通り、宝治合戦で滅んだ三浦氏と連座となった頃、千葉氏は一族が危機的な状況に晒されたと感じたため、1200年代の半ばごろからは、一族の神である妙見を各地で積極的に祀るようになったのだ。 また鎌倉期には、日蓮が読経の折に北辰に感得したとも言われ、日蓮宗の守護神としても広く普及した。 なので、この時期から先は、特により多く精力的に伝播されたと思われる。
受験合格・学業向上・技芸上達の祈祷のほか、受験直前や直後や当日に「通り抜け神事」が行なわれている。 他に、「鷽替え神事(除災招福)」、「茅の輪くぐり神事(智恵授け・ボケ封じ)」なども。 拝殿や天神社の向かいには(パノラマ2枚)
「千葉神社」では、妙見信仰が北極星すなわち不動の天に見立て、道教・陰陽道と結びついて発展した経緯から、「人間の星(運命)や全方位を守護掌握する神霊」として、特に「方位除(八方除)」と「星厄除(八方ふさがり年)」の「厄除祓」を強調していた。 建築や移転にあたって祈祷を頼む人や、運気の好転を願う人、道教・陰陽道・易学・九星気学・風水学などは、いずれも「五行」に絡めて、年廻りや方位を重んじる思想なので、プロの易占家や、その鑑定を受けた人々が多く昇殿する事から、三年の祈祷を受けている。 特に「五行」については、特別に案内を出していた。 それによると北斗七星は、「五行」の中では「七曜」の配当に当たるようで(五行配当図)、木・火(陽気)・土(中央)・金・水(陰気)の5つに、「日天(太陽)」「月天(太陰)」を加える、としている。 木−「祈願符」に願い事を書き、社前に供えること(月一回) 火−神道護摩壇「火美香」で檜の粉を焚くこと(参拝ごとに) 土−「亀岩」を撫で、「清め砂」を家の周囲にまくこと(月一回) 金−「金運宝徳守」を財布に入れて持つこと(月一回交換) 水−「延寿の井」の水を飲むこと(参拝ごとに) 「妙見延寿の井」は「一願成就」の霊泉として知られ、参拝後に水を飲むのが良いそうだ。 九星気学の吉方に当たることから、関東各地から「お水取り」に来るそうだが、「一口飲むだけで福と延寿を得られるので、たくさん取り過ぎないよう」との注意書きがあった(^_^;)。 「亀石」の方は、「妙見の使い」とも「乗り物」とも言われる「玄武(亀)」の形をした岩なので、この岩を撫でると福を授かる、とされていた(^^)。 二つの橋を渡ると、正門に戻る(パノラマ2枚)
ここには、「日枝さま(家運守護)」・「三峯さま(火伏せ)」・「神明さま(陽気授与)」と書かれ、最後に「御嶽さま(衣食住・生活守護)」という案内が立てられていた(^^)。 以上が千葉神社の境内で、そう広くはないが、たくさんの信者が次々と訪れる様子が感じられた。 この千葉神社は、別当「北斗山・金剛授寺・尊光院」を前身としており、かつては妙見祭が行なわれる折、中世には馬駆け・連歌会、近世には神輿・大船行幸まで行なわれていた。 また、妙見は全国の各地で信仰されたが、千葉六党から出た相馬氏は幕末まで存続し、相馬地方では特に信仰が盛んだった。 ところが妙見信仰は神仏習合だったので、明治時代の神仏分離令によって、「妙見神社」はやめなければならなくなった(;_;)。。 妙見は元から「天之御中主神」と決まっていたので、宛てる御祭神名には困らなかったが、「妙見」の名を取り除かなければならない。 となると、「中村神社」「小高神社」などと、各地名の神社名になるだけで、「妙見」を外すと、それぞれ元が共通性のある神社だった痕跡まで消えてしまう(^_^;)。。 そこで相馬地方では、古事記の中から、「天之御中主神」が「高天原」に登場するシーンにある、「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時」から、「初発」を取って、「初発神社」とか「ハジメ神社」と名乗っていたそうだ(^_^;)。 今では「妙見=禁止」という風潮ではないからか、「ハジメ神社」で呼ぶ人は少なくなったという。 <お昼は駅弁〜(^o^)> ↑にしてみた! 街中にはレストランなどいっぱいあるが、駐車場に困るし、金も時間も無いし、と言ってコンビニで済ますのも勿体ない……と思ってた所、ちょくちょくこの弁当屋の傍を通ったので、「買ってみようか(^o^)」という事に。 場所は「千葉神社」から、さらに北上する道路の途中にある「万葉軒」。万葉軒って千葉県の会社だったんだね(^^ゞ。 地図H←どうやらここが会社の本店だったみたいで、駅弁の弁当箱を象ったような建物に、車だと、ちょっと路地に廻って裏から入ると、↓こういう駐車場がちゃんとある。 万葉軒の店に入る前に駐車場(パノラマ2枚)
車だと一瞬で通り過ぎるので、建物の全体は写せなかったけど、「万葉軒」会社概要←これがHPみたい(^^ゞ。その面白いビルも写ってる。
千葉もさすがに県庁所在地だと、ビルがいっぱい車もいっぱいで、正直今イチ東京に行ったのと雰囲気変わらないんで(^_^;)、浜辺の名産なんかを、せめてお弁当で食べるのもオツかもっ♪ 千葉氏の史跡は、県庁の近くだと駐車は殆ど有料だったり、それもちょっと遠かったりするから、車で来るのはお勧めしないが、遠くから来る人とか、史跡も南北に渡って見るとなると、やはり車って事に。。。 その場合も、ここでならゆったり食べられるし、お茶とか味噌汁、コーヒーなどもセリフサービスで飲めるので、千葉市に来た時は、ここで駅弁を食べて行くのもテだね(^o^)。 4時以降だったか、半額とか激安サービスとかやってるみたい! きっと売れ残り対策だろうねっ(笑)。お昼を逃した場合も、夕飯をここで買うのもいいかも!! <大日寺(千葉氏歴代当主の墓所)> これまでの県庁付近からは、エリアがちょっと北に移る。鉄道だと総武線「西千葉」が近いけど、千葉都市モノレールの「作草部(さくさべ)駅」が近いかな〜(^^ゞ。 地図I←拡大して貰うと「大日寺」が出て来る。 これより巡る寺々は、元はこれまで居た県庁とか千葉神社の近くにあったのだが、昭和の空襲で焼けた後、この辺りに移っている。 「大日寺」の概観。禅宗風のシックな作りだ(パノラマ2枚)
←駐車場はこっち。この次に行く「来迎寺」は、大日寺の向かいなので歩いて行ける(^^)。
頼胤・胤宗は、A<鎌倉中期〜南北朝〜室町時代>で述べた通り、元寇への対応で、千葉氏が房総と九州に分かれた頃の当主で、胤宗は房総に残った方ね(^^ゞ。分かれるに当たって、ご先祖供養にも手立てが必要になったのかな? ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ |A ├−成胤−−胤綱−−時胤−−頼胤−┬−胤宗−−貞胤−−氏胤−−−−−−┐ | | | └−常秀−−秀胤 └−宗胤−−胤貞(九州千葉氏) | | ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ その後、昭和20年(1945)の戦災で全山焼失してしまったので、今の場所にまた移った。 縁起が二通りあって、ちょっと迷いそうだが……(^^ゞ。 今お寺のある場所も元は寺だったなら、そこに天平年間の由来が残っているか、あるいは、大日寺のあった場所にも、元々何らか古い由緒のあった寺があって、そこに千葉氏の菩提寺だけ移した、という事もありうるかな(^^ゞ。 元は大日寺と近かった千葉寺からは、奈良時代の遺跡が見つかってるから、その周囲に古いお寺がもう一つあっても不思議はないが、後者の場合、戦災で焼けた時に、そういう縁起を書いた書類も焼けちゃったのかも……。。。 ちなみに、松戸の馬橋にある寺と言えば、万満寺というのがある。 そのうちレポしたいと思うが、ここにも千葉頼胤が作らせた大日寺があったと言われ、これが「忍性」(鎌倉期の僧侶)に作らせたとも言われるので、開基時期についてはともかく、「仁生」については焼失や戦災の際、混同して伝わった可能性もあるかもしれないね(^^ゞ。 ところで、大日如来像と墳墓の後ろに見えてたのは……、
この「瑠璃光殿」は、案内図によれば「薬師堂」とあり、「西元1993年5月吉旦 台湾高雄牛乳大王 敬贈」と額に書かれていた。
本堂の隣には「千葉氏十六代廟所」(パノラマ2枚)
五輪塔は、上から空輪・風輪、三段目の屋根が火輪、4段目の丸いのが水輪、5段目台座を地輪とする。 だいたい真ん中に立って、横一列に撮影(パノラマ3枚・ほぼ180度)
左に見える段々状のがそうだろうか、基部に「文安2年(1445)6月□日」の紀年銘をもつ室町時代の多層塔もある、と案内板にあった。 これがどの観光ガイドにもだいたい載ってる、大日寺「千葉氏累代五輪塔(墓碑)」、あるいは「千葉家十六代廟所」とも呼ばれる。 名の通り、千葉常兼から胤将に至る、千葉氏16代の墓碑と伝えられており、銘文は摩滅して判読できないが、鎌倉〜室町時代の代表的な五輪塔と認められ、千葉市の重要文化財に指定された。 16代の最後に当たる「胤将」というのは、B<室町時代〜戦国前期>の千葉宗家・最後の当主、胤直の子に、馬加氏や原氏に負われて自刃した「胤宣」がおり、その兄弟ともいう。常兼から数えると、この「胤宣」で15代目になるので、その前後を継いだ一代という事になろうか。 こう並ぶと、なかなか壮観で、寺の焼失は残念だが、千葉介あるいは大名として滅びたとは言え、鎌倉〜室町期の歴代墓所なんて物が、昭和20年(1945)まで立派に守られていたんだな〜と、しみじみ感心する。 これも鎌倉幕府創設の功労者として、千葉氏が徳川幕府に臣下の手本とみなされた証かもしれない。 <来迎寺(千葉氏胤の墓)> 地図J←大日寺の向かいだけど(^^ゞ、今度は大きめサイズで。 キョロキョロ探していたら、ご近所の方だろうか、「お寺に入るのはこっちからですよ!」と声を掛けて下さった。 この辺まで来ると、千葉駅周辺みたく、大都市ーーー!って感じは無く、お寺も歩いてる人も親しみやすいムードに思えた。
このお寺は今は浄土宗だが、初めは時宗だったようだ(^^ゞ。 ただし、この寺も元は千葉神社などに近い、道場公園(院内2丁目)にあったのが、戦災によって全山焼失し、こちらに移されたのだそうだ。 中には、ちゃんと仏壇が組まれた手前に、みんなが集まれるよう広い座敷が出来ていた。 ここは健治2年(1276)、時宗の祖・一遍を開基に千葉貞胤が建立したと伝える古刹で、本尊は開創の頃からと伝わる、鎌倉時代の作、木造の阿弥陀如来立像である。 開基とされる一遍は、1239〜1289年の人だから、時代が被るように思えるが、貞胤の方はちょっとどうかな(^^ゞ。 貞胤もA<鎌倉中期〜南北朝〜室町時代>にある通りで、大日寺で名の出た、胤宗のさらに一代後だね(^^ゞ。 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ |A ├−成胤−−胤綱−−時胤−−頼胤−┬−胤宗−−貞胤−−氏胤−−−−−−┐ | | | └−常秀−−秀胤 └−宗胤−−胤貞(九州千葉氏) | | ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
・母妙仏(応永32年(1425)2月15日) ・(不明)(宝徳3年(1451)8月5日) 氏胤も、A<鎌倉中期〜南北朝〜室町時代>に書いた通りで、直臣団を編み出し、それが、その子の満胤以降の(禅秀の乱など)動乱時代に繋がった。 氏胤の死は1300年代で、紀年銘にある年月日は供養の時を示すものと思われるが、五輪塔は室町時代初期のもので、氏胤とその関係者の追善供養塔と見られている。 後ろにつく「阿」「阿弥」「阿弥陀仏」は、時宗の信徒(時衆)によく見られる法号。
<宗胤寺> 今度は、九州に行ったまま分かれた、九州千葉氏の「宗胤」の墓をお参りしてみる。 地図K←中心点が「宗胤寺」だが、左上の方を見ると、「大日寺」「来迎寺」がある(^^ゞ。 千葉頼胤と嫡子・宗胤が九州に渡ったのは、元寇に備え、幕府の命令を受けたからではあったが、元から九州に領地を持っていたためでもあった。 その根拠は、千葉常胤の生前、平家との戦いでの戦功であると見られている。 平安末期、平家との戦いの折、関東から連れられていった兵たちには厭戦気分がみなぎり、和田義盛など「俺はもう帰るぜ!」と言い出す始末だった(・・;)。。 千葉常胤らは、屋島で活躍する義経らとは別働隊で、先に九州に渡って、平家の行く先を封じ込める役目だった。 1185年が明けると、常胤は嫌がる連中を説得して、みんな船に乗せて、ともに九州に渡ったのである。 頼朝は常胤の老骨の苦労を思い、自身の弟・範頼に「常胤には生涯かかっても感謝しきれない、他の者より一層大事にせよ」と、手紙で労わりの気遣いを与えている。
宗胤の五輪塔は室町時代の様式をよく遺しているが、上の宝珠形の空輪と半月形の風輪は江戸時代に補修されたもので、下の三部とは石材の質が異なるそうだ。 宗胤寺は曹洞宗で、「宗胤禅寺」とも書かれていた。 本尊は木造十一面観音坐像で、光背の裏に貞享5年(1688)の造立銘がある事から、江戸時代の作とみられている。 ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ |A ├−成胤−−胤綱−−時胤−−頼胤−┬−胤宗−−貞胤−−氏胤−−−−−−┐ | | | └−常秀−−秀胤 └−宗胤−−胤貞(九州千葉氏) | | ┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘ 元寇の折、九州の御家人たちは幕府の指示に従って、当番で見張り役などを勤めた。 頼胤は元との戦いで怪我をし、そのまま九州で没した。 元寇は、1274年の文永の役、1281年の弘安の役の二度で終了したのだが、日本側では三度目の来寇が無いという確証は得てなかったため、子の宗胤はそのまま九州に残らなければならなかった。 そのため房総の本家筋は、弟の胤宗が継ぎ、宗胤の子・胤貞からは九州千葉氏となった。 鎌倉末〜南北朝の動乱を迎え、房総千葉氏は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞についたのだが、倒幕勢力が南北に別れ(^_^;)、九州千葉氏は足利方(北朝)、房総は新田方(南朝)について、子同志の貞宗(房総)と胤貞(九州)は、互いに千田庄(千葉県多古町)や千葉城(千葉市)などで戦いあう事もあった。 <千葉山> ↑というのは、千葉常胤が没した後、その墓を作った所だと伝えられている。 現地に行くと、確かに「元は千葉氏累代の墓所があったと伝えられる」とあり、塚や五輪塔もあったのが、村の境界争いから石塔は、さっきの「大日寺」に移された、という事だった。 「千葉山」(パノラマ4枚・180度以上)
常胤は享年84歳(満82歳)という高齢まで生きた。長男・胤正や次男・師常は、その後数年の内に亡くなっている。 常胤の死期は、1200〜1201年ごろと見られ、一説に1200年の2月とも言うが、大まか1201年3月24日と見られていると思う。 いずれにせよ、1199年に頼朝が頓死した後、1200年の1月には、梶原景時の一族が合戦で討死した後である。 常胤は、この梶原景時の罪を鳴らす、御家人66名からなる連判状の筆頭に名を与えている。(合戦には参加してないが) 梶原景時は、義経のことを頼朝に讒言したとして知られるが、上総広常を誅殺したとも見られる人物である。 が、上総氏の一族は千葉氏に吸収されてるし、その領地は、かねて上総介を望んだ和田義盛の物となった一方、千葉氏も上総に所領を得て、むしろ得したぐらいなので、今更その恨みとかいう線ではないだろう(^^ゞ。 御家人たちの不満は、頼朝の死後、頼家の周囲に梶原がいて、相変わらず讒言を言ってるという噂が原因のようだ。 しかし、いわゆる頼家の横暴は、何も梶原一人の責任とは言いがたい(^_^;)。 要するに、主君(頼家)の罪を家臣(梶原)に着せた、という事にはなるわけだが(爆)、あんだけ大騒ぎして生まれた頼家だ。何とか頼家自身に罪が及ばずに……と宿老らが苦慮するのは無理もない。 頼家はその後も、手足をもぎ取るように、頼家派の外戚や近臣らが、あるいは殺されあるいは遠ざけられた。 さらに、頼家に力を持たせまい、発言が御家人に聞こえないように、と牽制された挙句、頼家は暗殺されるに至るわけだが、常胤はそんな末路を見ずに先立てたと思う。
今は千葉氏累代の墓所は「大日寺」にあるので、こちらは元墳墓という事だろう、「星宮塚墳墓郡」と呼ばれている。 塚は現存5基。かつては旧都賀村大字園生字長者山から勝田田にかけて10数基が群集していたといわれ、明治時代後半に安川辰蔵がこれらを調査し「千葉家旧墳墓調査資料」(千葉県立中央図書館蔵)を著した。 その際、出土した壷は常滑窯産の蔵骨器で、14〜15世紀頃の製作と見られ、大日寺の五輪塔と同じ頃だという。 写真の通りの風景しかないが、行くなら左隣の「あやめ台小学校」が目印かな(^^ゞ。地図L <犬吠崎に向かう> 日暮れには早いが、銚子は千葉市からは遠いので、少し早めに移動した。 どう行っても行けるが、ナビに行く先を仕込んでみると、意外なルートを指示して来た(゚.゚)。 一度、茨城県まで行け、と出る。 つまり北上して利根川を渡り、東進して太平洋に近付いてから、もう一度利根川を戻って来い、と。地図M←すごく縮小(笑)中心点が現在地
筑波山は高いとは言え、ここからだと遠いから、あまり自信はないが(^^ゞ、形は似ている。 地図N←そして、最後にもう一度利根川を渡って、いきなり銚子市の先っぽ「犬吠崎」に入る。 左上にチラと見える「笹川」は、8月に「平忠常の乱」を紹介した時に出した「沼闕城」「大友城」のある辺り(^^)。
こうして犬吠崎に入って来ると、よく見掛けるのは……、
「銚電」というのは、「銚子電鉄」の事ね(^^ゞ。 廃線の危機から、地域を含めた復活を目指して、駅員さんが焼いて好評を得た、という有名な一品で(笑)、今では地域振興のシンボルにもなってるようだ。 そして、今夜のお宿に到着(^_^A)。 亭主がずいぶん飛ばしてくれたお陰で、思ってたより早く着いた。 宿のベランダから撮影。おおおおっ海だ!(パノラマ3枚・ほぼ180度)
関東では、ここが最東端になるのかな(^^ゞ。あの海の向こうはアメリカだね〜なんちゅうような、かなり大きな気分が実感できた(笑)。 以上、関連事項は(だいたい(^^ゞ)、 2001年6月五行配当図 2002年9月内 2006年9月<東京・神田明神>他 2007年9月<神田明神つづき、いよいよ参拝(^^)>内 2008年5月<香取神宮・2、「本殿」>内 2008年6月「千葉の動乱vol2」 2008年10月<常総市「六所塚考」> 2008年11月<茨城県取手市「龍頭山・常圓寺」> 2008年12月<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)> 2009年5月<相馬「中村神社」(西館跡)>内 2009年6月<「柴崎城跡」の周辺「柴崎神社」(我孫子市)> 2009年7月<西部「御霊山」>内および<北部「永泉寺」>内および<南部「海禅寺」> 2009年8月<東光院>内および<「大椎城跡」と「大椎八幡宮」>以降 2009年9月<1日目・千葉城(亥鼻公園)>以降 次回は銚子編の続き。 3日目、犬吠崎の「犬吠崎灯台」「犬岩」「川口神社」「円福寺・飯沼観音」、少し内陸よりの同じく銚子市「海上八幡宮」「等覚寺」「中島城跡」といった所に行きたい〜(^^)。 2009年10月09日 |
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