<2009年・城主のたわごと7月>




2009年2月「守谷城跡(戦国期)」や「今城(南北朝)」など、

守谷の将門伝承地レポ! その後は4月の花巡り(^^)。




     
  今回は「前回の続き(^^ゞ」みたいな感じで、相馬守谷氏の痕跡をさらに北に追って、「守谷城」を訪れたが、守谷に行ったら、将門の伝承地がとても多い事に驚いた(笑)。

守谷市に将門伝説が多いのは、将門の本拠地があった坂東市や常総市の、スグ南に接しているからだろう。
なので、前回とは少し赴きを変え、「将門ツアー@守谷編」という側面も強い。

もちろん多くの将門伝承と同じく、守谷でも学術的な裏づけが全ての伝承地において取れてないが、千葉県と同様、今や開発の真っ只中にあり、遺跡・伝承地が損なわれる危険性を帯びていることに変わりはないので、出来るだけ欲張ってレポしてみたい(笑)。

というわけで、守谷に行ったのは2月後半。その後は、4月のお花見の風情をお届けしたい(#^.^#)。



■2月・茨城県守谷市
<西部「御霊山」>


まず小野寺維道さまと、守谷の中央図書館で落ち合った(#^.^#)。
図書館に入ると、「これが守谷城跡の模型ですよ〜」とご案内を頂く♪
「こたつはコレが見たかったのーー(≧▽≦)!」とさんざん騒いだら、小野寺さまが図書館の方に話をつけて下さり、撮影許可を頂いた!!

でも、それは守谷城跡に行った所で出す!

さらに車に乗せて頂くや、小野寺さまからササッと「守谷の平将門伝説」なるパンフが配られる。
「えっ! こ、こんなに沢山!(*o*)」
そのパンフには、将門伝承の地図と謂れと伝承地がダダダーッ!!と列挙されていたのだ!

そして今いざレポしてみると、このパンフはすんごく助かったーーー(≧▽≦)!!
何せヨソ者な上、ありがたくも車でパパパーッと連れてって貰ったもんだから、当日は地理が全くわからずに、ただ「きゃあきゃあ(≧▽≦)」と喜んでただけだったからである(爆)。

さて、守谷における将門伝承地は、大まか以下の四つの地域に分けられる。
1、守谷駅より遠く西部。
2、守谷駅より北東部。守谷城はこの地域にある。
3、守谷駅を含め、南東部一帯に横長の地域。
4、守谷駅から近い南部。

まずは、城や駅からちょっと遠い「1、西部」からかかろう。地図A←だいたいこの辺(^^ゞ。

御霊山(パノラマ2枚)

この階段を上って森に入ると……、

左には祠が
正面には「御霊権現」なる石塔

「御霊権現」は台座に日付が刻んであったが、上からセメントで補強してるために、日付が隠れてしまってた(^_^;)。わりと新しい字には思えたが……。

標識や案内は何も無かったが、かつてここには、「平将門の影武者7人」の遺体を、まとめて小丘上に葬った事から「御霊山」と称した、と伝わっているそうだ。

さらに森の奥に入ってみよう。

こんな小さな丘になっている(パノラマ3枚・180度)

これまで見て来た千葉や茨城の、特に将門に関わる伝承地の延長線で言うと、こういう所は古墳の可能性があったり……という気がした(^^)。(2008年10月<常総市「六所塚考」>

この「御霊山」の丘は、小さいながら大樹林に覆われ、丘の下にはちょっと古そうで立派な墓所(個人のだと思う(^^ゞ)があって、周囲の木陰も涼しそうで、夏にはヒグラシなんか鳴くんだろうな〜と思った。
「おにぎりを食べに来たいね(^^)」なんて言って喜んだ(笑)。

←丘の向う側に見えるのは貯水池かな?

この後に行く守谷城も、手賀沼などと同じく、昔は大規模な水系に囲まれていたようだから、この丘からも、こんな水面が見れたのかもしれない(^^ゞ。

ここよりさらに北西(駅や城からはさらに離れる)に向うと、「板戸井」と呼ばれる所があって、ここも「将門が挙兵した時、相馬地方に七つの井戸を掘った」という伝えがあり、その一つとされている(鬼怒川わたったこの辺りかと→地図B)。
(また、将門の井戸伝説については、2008年8月<取手市「竜禅寺・三仏堂」>内と、同9月<将門再起、「石井の井戸跡」(坂東市)」>内にも(^^ゞ)

また、ちょっと南に行けば、「正安寺(寅薬師)」(地図C・拡大して貰うと、だいたいの位置が出る)もあり、これは「義経記」に、将門が太公望の「六韜」を読んだとある事から来ているようだ。
太公望の「虎の巻」を夢のお告げで手に入れた将門は、守谷城の寅の方角に「寅薬師」を祀り、お堂を建てたという由来に基くそうだ。



<北部「禅福寺」と「筒戸城跡」>

次は「2、北東部」に向かう(^^)。
北東部は真ん中に「つくばエクスプレス」の線路が北東から南西に入っているため、北部と北東部に分けられる。

まずは北部に行く。全体としては地図D(拡大して貰うと「禅福寺」が現われる)。

ここは当日、実は最後に来たんだが、地理的にわかりやすいので先に廻した(^^ゞ。
あと実はここだけ「つくばみらい市」なのだ(爆)。

だからだろう、ここは「守谷の平将門伝説」のパンフには載ってないが、目と鼻の先なので、小野寺維道さまが連れてって下さった!

←「禅福寺」参道。
↑左脇の月待講・供養碑。

月待講は、真ん中が十三夜で、右が三夜だったと思うが、その上がちょっと擦れてて(^_^;)。でも他にも、「念仏講中」の供養碑もあって、「筒戸邑・善男善女」などと刻まれ、大勢が念仏を唱えた昔が偲ばれる。

と言っても、この寺自体は臨済宗である(爆)。妙心寺派(^^ゞ。

いかにも禅宗チックな古めかしい山門
その先の立派な本堂に到達

「守谷の平将門伝説」のパンフに載ってないが、ここは、ナントあの「将門記」が書かれた場所という伝承があるらしい(゚.゚)。小野寺さまが郷土史の本に載ってたのを、たまたま見付けて教えて下さったのだ。

「将門記」の作者に関しては、色んな説やら憶測やら(妄想やら)があるが、地域を大まかに分けると「京人」説と「坂東人」説がある。(両方って説もある)

でも妙心寺は京だし、ここは坂東にある寺だから、作者@京説と坂東説のどっちもハマッてそうで、ますます悩みが深まるだけって気もしたり(≧▽≦)。。

←本堂から振り返る山門。外に出てみよう。

さて、禅福寺の隣接地や周辺は「筒戸城跡」でもあるようだ。寺の向かいには駐車場があって、その脇道の雑木林なんか良い風情だ。↓

この周囲一帯が「筒戸城跡」だったと思われる(パノラマ4枚・180度以上)

寺の脇に「濠跡」が残り、そこに案内版も建っている(^^)。

見にくいけど、今オレンジの所周辺にいて、真ん中が「二の丸」右下「本丸」その上「中馬場」という構成。遺構はこの他に、土塁や濠が残っているそうだが、今回は確認しなかった(^^ゞ。
が、「中城」「馬場」「下馬木」という地名が、往時を偲ばせる。

位置は小貝川左岸側台地上にあり、南に突出した舌状台地(標高約16m、低地との比高差2m前後を測る)は南が低地(水田)で、東と西は谷津(水田)が入り込む3方が要害という。

築城者は不明だが、一説に永禄2年(1559)、筒戸氏によるとも言う。筒戸氏というのは、前回、布施城の所で出した、相馬(布施)胤保の兄・相馬(筒戸)胤満から確認できる。つまり相馬守谷氏の一族である。

前回も出した系図で行こう(^^ゞ。

胤徳−┬−胤広(守谷城)−−胤定−−胤貞−−胤晴−−整胤−−治胤
     ├−胤満(筒戸城)
     └−胤保(布施城)

筒戸城が相馬筒戸氏の城だった場合、前回の布施城を弟が、この筒戸城をお兄さんが、これから行く守谷城を、そのさらにお兄さんが守っていたんだね(^^)。その後、三兄弟のそれぞれ子孫が配置されてたかもしれないし、その場合、将門に関わる伝えがある(残り続けた?)のも、相馬氏出身の筒戸氏が領していたからなのかもしれない。

1566〜67年、これより行く守谷城は、最後の城主・相馬治胤が、古河公方・5代義氏に城を明け渡し、この地域にも、後北条氏の拠点が置かれ、さらに1574年、簗田氏が後北条氏に下ると、本家の相馬守谷氏も後北条方の勢力に組み入れられたため、ここが筒戸氏の城なら、この筒戸城も後北条氏の壁となって、さらに北の勢力と対峙させられただろう。

さらに北の勢力、すなわち多賀谷氏佐竹氏は、秀吉の小田原征伐(1590年)ギリギリまで後北条氏と対立し、牛久城・矢田部城・足高城などを巡って、熾烈な戦いを繰り広げていたから、そうした渦中で、さらに秀吉の関東制圧の波に飲み込まれたという事だろうか。(2008年7月<牛久城跡、2>内

案内版(谷和原村教育委員会)には、「北相馬郡郷土史」が示され、「天正17年(1589)筒戸御門城主たりし頃、下妻の多賀谷家重、大曽根の白井全洞などにより攻められて、天正18年(1590)落城し、以後廃城となる」と書かれていた。



<北部「永泉寺」>

全体としては地図E(拡大して貰うと「永泉寺」が現われる)。
禅福寺よりすぐ近くに「永泉寺」がある。ただここから、また守谷市である。

永泉寺」に到着〜♪
門前に咲く白梅(^^)

この年は、このあと忙しくなって梅花はあまり見られなかったから、ここの白梅が印象に残った〜♪

境内に入って右の鐘楼
真新しくて立派な獅子(象?)の柱組

三人(小野寺さん、亭主、城主)で真似して「お手」のポーズをしてみたり(笑)。
この鐘楼前の池が、また新しく、しかもカラフルで面白かった(^^)。↓

(パノラマ2枚)

また庭に進む石畳の通路には、九曜紋に
混ざって三つ巴紋が!

これも小野寺さまのチェックが入って撮影(笑)。そうそう、前回の「布施城跡」にあった「八坂神社」(妙見社)にも、奥の屋根には三つ巴紋が入ってたっけ(^^ゞ。

「守谷町史」には、この寺の創建を「延暦元年(782年)」と伝えるものの、案内版では、これに添えて、「天慶の乱より以後に再建されたと考えられる」と述べている。

このお寺にも、「将門の滅亡後、遺族や残党が将門や影武者の土偶を、この地に祀った事に始まる寺」と伝わっており、寺に、そうした由緒を伝えるのが、現存する「沼崎山畧縁起」である。
作成されたのは近世後期と思われ、境内には筆跡をそのまま拡大して、大きな石碑が建っている。

私にはちょっと字が読めなかったが(^_^;)、案内版にある事と併せて書くと、だいたいこういう縁起のようだ。
将門は「天慶の乱」(939〜940年)に敗れ、自分に似せて作った6人の土武者を安置し、堂宇を建てた。
将門とあわせると7人となるから、これは将門伝説としてよく聞く、七騎の武者(あるいは影武者)の伝承と同類だろう。

天慶の乱で敗れてから将門が死ぬまでは急展開で、堂宇を建てるのは無理に思えるから、実際には伝えられる死期より少し長く生きたという意味か、死の直前に従者なりの供養を行なったので、将門の死後を受けて堂宇を再建した者がいる、という風にも受け取れる。

縁起からは「天慶の乱で破滅し残流した」とされる、何らかの存在が背後に感じられ、これは千葉県でも、将門に付き従った者の内、近辺に落ち延びたり、その後に流れるなりで、言い伝えを残した存在が主張されている。

七騎の武者の墓所というのも、実は千葉県にもある(^^ゞ。
ちなみに「相馬」の姓は、千葉氏の他に、千葉氏と同族の上総氏からも称した支族が出ている。
だから千葉常重常胤が出る前から、上総氏系なりがこうした伝承を吸収した可能性も無くはないが、上総氏が没落したので、間の部分は想像に任せる他に手段がない(^_^;)。

そして正式に寺の建立に漕ぎ着けた経緯については、「当地に将門公を慕って建立」ともあり、願主には「相馬大蔵卿」の名が見られ、この相馬の地を治めたという。

歴代住職(相馬氏)の霊廟
29世と30世の住職が相馬氏のようだ

「相馬大蔵卿」より以後、やがて天正元年(1573年)となり、常陸・下妻の多賀谷修理太夫が乱を起こして攻めてきた。

この時、この寺では「領内の人夫を集め、四方へ堀を掘らせ、土手(土塁)を構築してこれを防いだ」という。
今でも寺の境内や墓地を囲むように、高さ約80cm位の土塁が残っているから、それの言い伝えだろう。

禅福寺つまり「筒戸城」との近さを考えると、後北条氏側に属することとなった相馬守谷氏の勢力による防御とも考えられるし、当時の寺自身が独自に防備を固めた、という風にも考えられる。

将門から多賀谷氏の襲来に至る間については、この寺に安置されている「聖徳太子」の木造立像が残り、そこに関連して、「相馬(式部太夫)政安」の名が現われ、「聖徳太子の霊夢」と結び付けられている。

「笏のみを持つ形の像は、他の聖徳太子像と異なって」いる事から、極めて異色で、鎌倉時代の末期〜南北朝時代(1300年代後半)ごろの製作と推定され、これも「沼崎山畧縁起」によると、元は「常州稲田(現、笠間市)の禅房において、祖師「親鸞聖人」が彫刻され、性信房に下されたものを、仏縁によって譲られた」という事だった。

正面・本堂
龍の彫り物

龍は彫物や寺名や伝承などに、古くから香取海で連なる地域でよく見られるが、それは氾濫を催す水域などに多い傾向だから、特に変わった点でもなかろう。が、将門ゆかりの地域には、やはり裏に王位を意識してかな〜と思う事もある(^^ゞ。

又、この「永泉寺」から、ちょっと南に行くと、守谷から北上した道筋に松並木の街道があり、古来は「内裏道」とか「将門並木」と呼ばれていたとも言う。たぶんこの道→地図F

この辺りの話になると、後世、「相馬に将門の王都が作られた」とされた、いわゆる「相馬内裏」や「相馬偽宮」の作り話と一緒になってる気もするが(笑)、古くから続いた今も残る街道という意味では、貴重な伝承に変わりない。



<北東部「守谷城跡」1、城内地区>

守谷城は本城が公園となって整備されて残され、その外郭と思われる部分が市街地にも見られる。
まずは公園の場所を示そう。地図G(拡大して貰うと「守谷城址公園」が現われる)。

ここで先に話した、「守谷中央図書館」(地図H)で撮影させて貰った、守谷城の全体復元図を出すね〜(#^.^#)v。


↑こんな形になってるわけなんだけど、まず認めて貰いたいのが、「周囲を水に囲まれていた」という事(^^ゞ。
これが「守谷城址公園」……つまり本城跡にあった案内図によると……↓

ド〜ン! 上下が逆さになっているがっ!(爆)

単に私が模型を撮った時、撮影位置を逆に撮ってしまったのが原因なんだけど(^_^;)、船なんか書いてあって、やはり水の中に浮かぶ一大要塞だった事がお判り頂けると思う。

実はこれでもまだ、東西南北の位置にちょっと正確さが足りない。
地図I←正確な北の位置はコレでわかるかな(笑)。
現在の地図を見ると、真ん中の本城を「本丸」と見なせば、公園となっているのはここのみで、北西に向かって突き出る岬のような部分は今は無いようだ。

本城に続く、北東の二段続き曲輪には、昔は「妙見曲輪」があったようで、東北の相馬でも有名な「野馬追い」の行事など行なわれたようだから、北西に向かって岬のように突き出た一帯には、「二の丸」や「三の丸」に相当する城郭があったか、「武家屋敷」があったのかもしれない。

実際、模型で示される岬の一区画には「九左衛門屋敷」と表示されており、相馬守谷氏の本城に対して、一門家臣などの屋敷地であったらしい事が伺える。

ちょっと光っちゃって、見えにくいけど、模型のその部分を(^^ゞ→

現在、岬の突端部分は住宅化されて失われてるように思えるが、岬の根元部分か、この復元図よりちょっと外れた所のみ、公園から少し離れた市街地に、チョコッとだけ残されてるって事かな〜と思った(^^ゞ。

と言うのも、「岬の根元部分」(城全体から見ると南西方面)に相当すると思われる場所が、「守谷小学校」の道路を隔てたお向かいにあるからだ。地図J←ここがそうだ。城址公園からは、ちょっと隔たった場所にあるのがお判り頂けると思う。

「茨城百景 守谷城址」の碑
その隣の道路を隔てて「守谷小学校」

実は、ここまでは2006年には来ていた(笑)。その時は、ホントにフラッと訪れたのだが、「ホントに将門城って書いてある〜(゚.゚)」と驚きつつ、案内版にシッカリ戦国期の相馬氏の事が書かれていたので、その内ちゃんと来たいと切望して、やっと来たわけだぁぁ〜!

←小学校の敷地内には「平将門城址」という石碑がある。

道々、「将門城」と書かれた標識もあり、入り組んだ街の中だが、わかりやすくて良いとおもった(^^)。

こちらは、今度は小学校側から写してみた城跡遺構→

ここを「平将門城址」とか「将門城」と呼ぶのは、将門流を継承した相馬氏の領地に該当するからなのは勿論だが、将門の頃に館などが作られた痕跡は確認されてないし、むろん文献的にもない。
また立地的にも水に囲まれて、ジワジワと城地を整えていった過程を思うと、ここに城なり営所なりを作って機能(例えば他の地域と連携)させるには、ちょっと難しかったかもしれないな〜とも思う。

ただし、守谷は坂東市や常総市には非常に近いので、城や偽都に関わる後世の付会が、そのまま将門に関わる全ての土地伝承を否定する事にまではならないだろう。

何よりも相馬氏が持って歩く「将門伝承」というのは、相馬氏の拠点を辿る上で手掛かりにしうると思う。移入者の割合が増えると、「史実じゃないから壊していい」という風潮に簡単になりやすいが、それは土地を商業利用するため吹聴された結果の「諦め」に過ぎない。

そのようにして開発され続ける都市部の近くにあって、痕跡が掴みづらくなってしまった現状では、土地に伝わる古老の「昔語り」に手掛かりを得るしかない場合も多かろう。

今度は敷地に入って写してみよう(パノラマ3枚・ほぼ180度)

土塁には切れ目が入っていた
現地にあった地形図

ここは発掘された跡でもあるらしいから、このようにえぐられてる箇所は、通路なりに続く場だったから、という気がするが、右の地図で見る限り、馬出とか土橋など水濠に面していたか、船着場など水辺に面していたのかもしれない(^^ゞ。

右の地図がまた南北逆転してて(^_^;)、スグには読み取りにくかったんだけど、何しろ左上の独立した地域が、これより行く「城址公園」の本城(本丸)部分に該当し、真ん中のちょっと大きめに広がる部分に今いる、という事だと思う。

公園にある本城は、早ければ鎌倉時代にはその基礎があったように思える。
一方、今いる岬の根っこ部分あたりは、だんだん広がっていった結果ではあろうが、戦国期にはかなり城郭化され、最終的には今いる側に、本城としての機能が移ったような事が書かれていた。

こちらに移された方の城からは、戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎)26棟が発掘され、それに付属して、井戸・堀・食料貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所などが検出され、多くの貴重な遺物が出土したため、およそ、1400〜1500年代に機能を発揮した事が判明した。

ところで、上の地形図を見ると、今いる場所に土塁跡らしき遺構があるのみならず、小学校の敷地か、そのちょっと外れあたりにも遺構が確認できたので、図々しくちょっと入らせて貰ったりなんかしてるわけだが(爆)→

校庭で子供達が野球の練習にいそしむのを、応援に来たようなフリしながら、このまま→こう進んで行くと、校庭の外れ部分に、こういう場所があるわけ↓

急な落差に階段が設けられている(パノラマ2枚)

こういう高低差は遺構っぽい気がして、ここでも「枡形って奴っぽい(^^)」とか言ってたわけだが(笑)、上の地図で見ると、小学校の敷地スレスレの辺りに、「枡形」と書かれた場所があるにはある。地図K

学校ではきっと、「第2グランド」っぽく使用されてるんだろうね(^^)。
ここで調練(←!!)すれば、将門や相馬氏の加護あって、強い子供が育つに違いない!



<北東部「守谷城跡」2、本城「守谷城址公園」>

さて小学校をズーンと去って、地図L←今こんな場所に来ている。
昔だったら水の上かもしれんが、今は広い公園敷地が広がっていて、車から降りるとまず出会ったのが……、

河獺(かわうそ)弁天」全景(パノラマ2枚)

ここなど守谷城の再現図で見ると、水中じゃないかって思うんだが、周囲には島が点々とあっただろうと思われるので、そうした島の上に弁天を祀ってあったのかもしれないね(^^)。

ここが又、将門伝承の拠点の一つで、「将門が城の鬼門除けに祀った」と伝えられる場所なのだ!

鬼門と言えば北東だが、守谷城の北東には「妙見曲輪」があり、正確に言うと、河獺弁天のあるココは、城から見て北北東、妙見曲輪があるのは東北東みたいな感じかな(^^ゞ。

何しろ相馬氏は、こうして鬼門を、将門の祀った弁天にも妙見にも守らせた!!
なるほど、そんな相馬氏を、帰服させた後北条氏は滅び、降参させた豊臣氏も滅んじゃったわけだし!(笑)

←さて、又々、方位のイカンの地図が(^_^;)。。
もう面倒だから、だいたい北を上に90度回転しといた(爆)。
ただ、この地図は凄くわかりやすくて、この通り、上の方にある「池地」(水色)の上に「かわうそ弁天」の敷地があり、そこから道を辿ると、中央の「多目的広場」に出られる。

この「多目的広場」のあった辺りまでは、思うに多分、昔は水が寄せていて、その下の部分、薄緑色の一角に「本城」があったと思われる。

この城跡の右ハズレ部分は田園となっており、本城の鬼門にあった「妙見曲輪」は、公園の敷地外となってるような気がする。
てわけで、まずは中央の「多目的広場」まで行ってみよう(^O^)/

多目的広場」への入口階段を上から撮影(パノラマ3枚・ほぼ180度)

今こんなトコ→地図M。↑向こうに見える森こそ、守谷城の本城跡である。今いる場所は昔なら水上かもしれず、昔だったら……↓

こんな風にお船でやって来たのかもネ!(≧▽≦)

今はこうした湿地帯を残す「歩ける」公園になっている(パノラマ2枚)

ああっ、ここはもしかしたら、また「耳なし芳一」コンサート会場っぽいけど(爆)、いよいよ前には森が近付いて来ている。

さて、そろそろ守谷城の歴史を語りたい。

この守谷城址公園は、さすが下総の相馬氏宗家として最後まで残った城だけあって、城跡に入ると立派な案内版があり、年表仕立てで城の歴史が書かれている(^^)。

「大治5(1130)年6月、平常重(千葉常重)が下総国・相馬郡・布施郷(安孫子市域)を伊勢神宮に寄進したことから相馬御厨と呼ばれる荘園が成立した」

ここまでは、2008年12月<兵主八幡神社>、同<布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>で述べた通りだ。
相馬御厨」の前身は「布施御厨」であり、「布施御厨」とされてた頃には、手賀沼の南に領域を広げてなかっただろうと思われる。続いて……、

「寿永2(1183)年〜文治5(1189)年、この頃、御家人・千葉常胤の次男・師常が「相馬氏」を名乗る。
鎌倉時代初期の相馬御厨は、相馬師常が源頼朝から地頭の権限を与えられ、現地の土地を直接支配していた。」

と、ここまで平安期〜鎌倉初期までの連続性が辿れるが……、

「(大永5(1525)年11月)、史料には、「相守因幡守(相馬守谷・因幡守)と称する相馬一族の人物(相馬胤広)が、守谷に居城をもっていることが『足利高基書状』で確認できる。」

「相馬胤広」というのは、さっき出した「守谷・筒戸・布施」三兄弟の、一番お兄ちゃんね(^^ゞ。
つまり、やはりここでも、鎌倉期から戦国期までの336年間が、ズバッと飛んでいる(^_^;)。。

なので、ここで左に目をやってみる。

←こんな風に水路となっており、さらに上に架けられた橋を渡って行く順路に工夫されており、昔は満々と水辺だった名残とともに、「水上の城・守谷城」を偲ばせてくれる(^^)。

そして奥に連なる山並は、位置的にはもうちょっと左かもしれないが、「赤法花」(地図N)と呼ばれ、これも「将門が城内から眺望すると、唐の赤壁を見るようだったから、赤法花と称した」と伝わる地名だ(^^)。

「法花」はどうも「ほっけ」と読むようで、千葉県でも我孫子市に「法華(花)坊館」があった。我孫子の「法華(花)坊館」は遺構が消滅してるようだが、相馬胤村の三男・「根戸三郎(胤光)」に関係する城跡ではないかという推測もある。相馬氏系図(2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内

「法華」は、もしかしたら日蓮宗がらみだろうか(^^ゞ。下総にも日蓮の門下がいた事や、松戸の本土寺が日蓮宗である事までは掴んでいるが、城やその周辺の地名に関わる理由との繋がりは知らない。

しかしそうなると、鎌倉時代の初期、松戸市に近い沼南(柏市)の増尾城に起点を発し(2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内、鎌倉中期〜後期には、千葉県でも最北の我孫子市にも拠点の一つがあり、戦国期には、利根川をさらに越えたこの茨城県の守谷に、相馬氏の本城が在った、という事になる。

もちろんこれは、南から北に「進攻していった」結果ではなく(^_^;)、元は大きな領地だったものが、その中において「本拠点が北に移った」と見るべきだと思う。

平安末の千葉常胤の次男・師常も、源頼朝の旗上げに参陣したと見られ、頼朝の重臣として幕政に参画し、その功によって相馬郡の他にも、結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を拝領し、さらには奥州相馬の地まで賜っているからだ。

つまり守谷も相馬郡であるから、最初から相馬氏領だったのだろうが、その中では最北に偏ってるため、最初から中心拠点だったとは見なしにくい、という話である。

年表にもある通り、守谷における相馬守谷氏の初見は、1525年の古河公方・(3代)高基の書状である。
そして発掘調査の結果、鎌倉期ごろにあっただろうと思われる城から、何度も手を入れ直して、戦国期の城へと変貌していった事が判明し、史料の裏づけとなっている。
(こういう事がわかるから、城跡は壊しちゃいけないのよっヽ(`Д´)ノ)

また、このように守谷城を囲む水系は、これまた「平親王(将門)の固めとなっていた」と伝承されるものの、歳月とともに次第に埋まり、今では「守谷沼古城沼)」(地図O)と呼ばれる所と、その奥の田んぼのみが、当時の面影を伝えているのだ(^^)。

いよいよ城跡が近付いて来た。まずは土手を登る(パノラマ5枚・180度以上)

すると、高台からこんな風に城跡を臨める(^^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑守谷中央図書館で撮らせて貰った模型だと、↑こう見ている。
土手を降りると、右から進入ルートが作られている→

道は右に入って行くように一度折れ、やがて頂上に向かって、やや急な上がりとなって行く。ほぼ、上の再現模型で見る通りの作りと思われる。
やがて手前の土塁の合間から、「平台」と呼ばれる平地に到着する。↓

←このように、急に向う側が明るくなる、土塁の合間から出られる通路があって、「松戸の根木内城と似た感じだね(^^)」などと言い合った(笑)。

しかし、このまま真っ直ぐ進んで行くと、根木内城などよりは、かなり広い敷地である。

また、進んでから振り返って見る、周りを囲む土塁の規模もかなり長くに渡り、これだけの居館を取り巻いて防備を固めるのは、大変だったろうな〜とか思った(笑)。↓

まず前に進んでみよう。かなりの広さだ(パノラマ3枚・ほぼ180度)

そして後ろを振り返る、エンエン土塁が連なっている(パノラマ3枚・ほぼ180度)

ここは「平台山」と呼ばれ、鎌倉期に館がしつらえられたので、ここを元の居城と見なして「本城」とも呼ばれるが、さっき小学校近くでも話した通り、戦国期以降は相馬守谷氏の本城は、さっきの小学校周辺の「城内地区」に、その機能が移されたため、「本城」と言うと紛らわしいかもしれない(^_^;)。

鎌倉期にはこっちが本城で、戦国期には城内地区が本城である。
分別して話す時には、こっちを「平台山」と呼び、さっきの小学校付近の方は「城内地区」と呼び分けた方がいいかもしれない(笑)。

で、こちら「平台山」の面積は、約21.254u。戦国期には「城内地区」の本城に対して、支城あるいは出城として使われていたようだ。
平成7年(1995)の発掘調査で、倉庫と考えられる9棟の掘立柱建物跡が発見されたという。

他に主な出土品としては、瀬戸・美濃産(愛知県瀬戸市、岐阜県多治見市、土岐市付近)の茶碗・天目茶碗・皿・すり鉢などの小型陶器類、常滑産(愛知県常滑市)の甕などの大型陶器類、伊万里(佐賀県有田町)や中国産の磁器片、鉄砲弾(鉛製、鉄製)・小刀・古銭・煙管(きせる)や土製の犬型ミニチュアなどの玩具品もあった。

「城内地区」の小学校の傍にあった案内版には、この「平台山」から「城内地区」に本城を移した理由について、「戦国時代になると、戦闘様式等の進展に伴って増築、移転」と書かれており、その通りだろうと思われるが、私見を交えるなら、鎌倉以来の居館跡地を、なるべく維持すべく、戦闘機能的な新しい城は別の場に作った、という事ではなかろうか。

ここには、時代の変遷を追って、都度、手が加えられた跡が見られるようで、防備を固めつつも、鎌倉様式の素朴な作りも残されていたようにも思われる。

こういう雰囲気は、分かれた系譜とは言え、福島の相馬中村城にも感じられ、鎌倉期以降、「一所懸命」によって守って来た先祖の家風を重んじるといった、独特な戦国武家の城と言えるかもしれない。

さて、この元・本城たる「平台山」も、推定再現図で見る限り、真ん中の広い敷地を囲んで、大まか三つの曲輪で構成されているように思われる↓


三つと言っても、左の岬部分と、右の二段「妙見曲輪」のある部分は城址公園ではないから、現在、城址公園として整備されてる「中央の敷地をさらに三分割」という意味ね(^^ゞ。

まず右を見てみよう。ここには「空掘」があり、「土橋」(再現)が渡されている。


土橋の先は敷地があまり無く、公園としてはここまでと思われるが、再現模型では、かつてはそのさらに先に「妙見曲輪」があり、「野馬追い」の行事も行なわれていた。

この「妙見曲輪(妙見郭)には「妙見八幡社」があったようで、これも将門が「霊夢により、城中(妙見郭)に勧請した」と伝わっている場所だ(^^)。さっきの河獺弁天と相並ぶ、鬼門の位置だ。

そして「平台山」の左側には、「虎口」の先に「矢倉台」という突き出た部分があり、城のあった当時はそこから、そのさらに左の曲輪に向かって「橋」を架けた跡があったらしい。ここの溝部分も「空掘」だったようだ。
そっちにも行ってみよう(^^)。

左方面には下り坂がついている
右に見える森林。橋を架けた辺りだろう

ここは、推定模型および推定復元図から察する限り、隣の曲輪までの間が、水路で切断されていたか、後に埋め立たにせよ、こうスンナリと行ける具合ではなかった気がするが、今では湖そのものが無いので(^^ゞ、坂を下るだけで隣の曲輪にスンナリと行ける(笑)。

が、城のあった当時、隣の曲輪に向けて橋を懸けた跡があるらしく、ちょうど入り江でもあるので、橋を落とせば防衛できるようになってたのではないかな。

この通りの深い濠で、挟み込む畧がかなり高い。右の畧が今までいた「平台山」→
ここが谷(濠)部分
ちょっと先に進んでみる

後ろを振り返ると、昔は沼だったのだろうが、今は陸地となっている。
←こっち方面に進めば、やがて「妙見曲輪」の跡地にも行けたようだ(^^ゞ。
帰りに三人で畑や原生野っぽいこの湿地跡を散策して、「いい所だね〜(^^)」と喜んだ♪

さて、戦国期にイキナリ登場する守谷城について書こう。

ここも案内版の記述をそのまま書く。

「(天文6(1537)年正月)、『関八州古戦録』にも、守谷を本拠としている相馬氏の存在が記載されている。現守谷城の前身になった城館はこの頃築かれたと考えられる。」

「天文7(1538)年、国府台(千葉県市川市)合戦以後、後北条氏の勢力が下総国に影響を及ぼすようになる。
上杉謙信軍が2度にわたって関東に来攻し、反後北条勢力の後ろ盾になっていた。上杉謙信軍が退いたあと相馬氏は北条氏政・古河公方義氏と和睦し、後北条氏に従属する証として守谷城を義氏に開け渡す結果となった」

「永禄9(1566)年8月、義氏の母・芳春院周興が入城し、ここに相馬氏の居城としての守谷城に終わりを告げた」

「永禄11(1568年)年5月、守谷城の拡張、修築工事が行われ、北下総の要衝にふさわしい規模の戦国城郭になったとみられる。」

この辺りについては、前回の「布施城」でも書いた通りである(^^ゞ。まずは系図

胤徳−┬−胤広(守谷城)−−胤定−−胤貞−−胤晴−−整胤−−治胤
     ├−胤満(筒戸城)
     └−胤保(布施城)

1530年代ごろについては、2009年6月<「布施城跡」と、その周辺(柏市)>内・A
1560年代ごろについては、   〃   <「布施城跡」と、その周辺(柏市)>内・B

じゃ、隣の曲輪にも登ってみよう(^O^)/(パノラマ2枚)

こっちの曲輪もそれなり広い空間だった(゚.゚)(パノラマ4枚・180度以上)

対岸の向うに見える「平台」の畧がカッチョイイ!!(パノラマ4枚・180度以上)

どお? 結構スゴイでしょ?( ̄∇ ̄)v(←お前が自慢するなっ!)
何しろ、この向う岸の畧の見え方と言い、その下の濠の深さと言い、かなり満足度の高い城跡巡りだった。

かように戦闘的な城塞となったのも、「公方の御座所」と言うよりは、松戸高城氏の城のように、北条流の築城技術が導入された結果、という事もあるのかもしれないね(^^ゞ。

ただ、城を譲り渡すに当たって、相馬守谷氏としては「古河公方(5代)義氏さまに、お使い頂けるのであれば(^∧^)」という形を取っている。

古河公方というのは、元は鎌倉公方だったが、叛乱を起こして鎌倉を出て以来、家臣の棲家を「御所」とする事が、この頃までにはもう常態化していた(笑)。
城を譲って公方の「御所」となし、史実に名を残す事は、家来にとって一面は名誉でも忠義の証でもあったのだろう。

相馬守谷氏も、古河公方3代・高基の家臣だったから当然かと言うと、その後の4代・晴氏が北条氏に逆らった頃、また、さらにその後、5代目を巡って、義氏(外戚・北条氏)と藤氏・藤政(外戚・簗田氏)が争った頃には、今イチ相馬守谷氏の去就が見えない(^_^;)。。

さらに、守谷退城後の相馬守谷氏は、「古河公方の家臣」と言うよりは、どっちかと言うと「北条方」として(似たようなモンだけどビミョーに違う:笑)、多賀谷・佐竹・謙信の連合勢力に対抗する壁となって、せっせと防衛戦に費やしている。

この当時、相馬守谷氏が梁田氏などより風下に置かれ、そんなに強い立場になかった事もあるだろうが、御所にすると言われて出て行った結果、ここは御所にはならなかったのだから、マンマと騙されてアホだったかと言うと、多分それはそうじゃなく、相馬宗家という難しい立場もあったのかもしれない(^_^;)。

全部書いてるとキリないんで、以下、自分タッチで粗描(爆)。

簗田「相馬氏は鎌倉の御家人だよね? 甥は源氏の足利氏の血をひいて、世が世なら鎌倉御所なのに、北条に鎌倉取られて、言いなりになってる義氏を立てるのは変じゃない?」
言われてみれば、確かに(^_^;)。

北条「でも相馬氏は頼朝の血筋が三代で絶えちゃった後、執権・北条氏によって所領安堵が継続されたでしょ? ほら、ウチも、その北条なワケよσ(^。^)」
それは又ちょっと強引な(^_^;;)。。

謙信「なに古臭い話してんだよ。鎌倉時代はとっくに終わって、室町幕府が出来ただろ? この関東を管領しろって事になったのは、上杉家だったよな確か?」
あ、それはそうだった(^^;;;)。。。

義氏「それももう古い! 謙信なんか養子だけど、俺は四代古河公方のれっきとした息子なの! だいたい相馬氏は、その関東管領の上杉氏と揉めてた古河公方の家臣だったよな。俺がその古河公方だって言ってんだよ!」
それもあったか。そ、そうだった(^^;;;;)。。。。

その時々において、これが一番正しいと思う道を進んで来たハズなのに、周りにギャアギャア言われたあげく、簗田・北条・義氏に、
「何しろ、そこに居られると邪魔なのっ!!」 ヽ(`Д´)ノ ヽ(`Д´)ノ ヽ(`Д´)ノ
とか合唱されて、どかされた。。。。(謙信は越後にいたと思うが:笑)

しかし退いたにせよ、どっちの勢力につくかという先の問題は残ったに違いない。

ご先祖「また佐竹に、相馬御厨を取られちゃうってのは、ちょっとさぁぁ〜(T□T)!」
わかりました、北条につきます(^∧^)。

ま、ちょっと乱暴なマトメ方にはなったが(笑)、だいたい、こんな感じでいいかな(^^ゞ。それだけこの地が、当時は要衝の地だったという事になる。
(「千葉県の動乱vol2」内<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>

←曲輪の奥にあった、少し窪んだ狭い場所。復元模型で見ると、この辺りに「枡形」とあるので、それなのかもしれない(^^ゞ。

守谷城に来れば、鎌倉〜戦国の空白部分が判る?という期待は外れたが、ここでは相馬守谷氏が去った後の守谷城や、守谷領の経過がわかって、そっちがむしろ収穫だったな〜と喜んでいる(^^)。
案内版の記述に戻ろう。

「天正18(1590)年、後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされる。守谷城には家康の家臣・菅沼(土岐)定政が入城し、守谷領一万石の大名となった」
「元和2(1616)年、菅沼定義は、摂津(大阪府)高槻に転封となったが、元和5年(1619)、定義の子・頼行が守谷城主に復帰した」
「寛永5(1628)年、出羽上山(山形県上山市)に移封されると、守谷城も事実上廃城になり、城下町のみが近世の町へと発展していく」

偶然だけど、この菅沼氏の移封された山形県の「上山城」には、一昨年の9月に行っていたので、ちょっと驚いた(^^ゞ。
何しろ江戸時代に入ってすぐ、1628年には、守谷城は廃城になってしまった。

「寛永19(1642)年、守谷領の一部は、佐倉(千葉県佐倉市)藩主・堀田(加賀守)正盛の所領となり、その子・正俊へと受け継がれた」
「寛文7(1667)年、寛文7年から寛文9年までの守谷領の一部は、一時幕府領に編入され、代官として曽根五郎左衛門、雨宮勘兵衛の管理下におかれた」

堀田氏の時代は、これで見る限り、25年と長くはないけど、堀田氏はあの佐倉宗吾の事件でも有名で(笑)、一時佐倉領からは所替えとなったものの、子孫がまた佐倉に封されて後、「将門」を祀る影で宗吾の慰霊を行なった、とかいう事だったから、江戸期の守谷における将門伝承との絡みなどあれば、それも興味深いと思った(^^ゞ。(2005年11月<うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内

「寛文9(1669)年、酒井忠拳(ただたか)が守谷の新領主となる」
「天和元(1681)年、酒井氏が厩橋(群馬県前橋市)に転封となり、守谷領は関宿(千葉県関宿町)藩領に編入され、以後明治維新をむかえるまで続いた」

つまり結局この地は、関宿藩となったんだね(^^ゞ。

しかしその後、この守谷城跡は、将門の「相馬内裏」、あるいは「相馬偽宮」と大いに宣伝され、長い間、「将門の王城の地」とか「将門の相馬御所」と語られる事となった(笑)。

相馬氏が居城していた頃にも、「将門の子孫」とは言ってたのだろうが、そこに城があって、具体的に城主が居る時代と、鬱蒼とした森となって想像力のみ駆り立てられた江戸時代では、おのずとイメージされる物も違っただろう(^_^;)。。

江戸時代以降、浮世絵などに描かれる将門や縁者を取り囲む家臣、そしてその住まう「相馬内裏」の絵柄には、すこぶる豪奢な王朝絵巻が展開されている(笑)。



<南部「今城」>

↑「いまんじょ」と読む。
この辺りは「4、南部」に入れていいと思う。これより先、「3、駅および南東部」を抜かしてしまうので、南東部についても軽く記しておこう。

「長龍寺」(地図P・拡大して貰うと「長竜寺」と現われる)
将門の創建とされ、将門の位牌「長龍寺殿徳怡廉参大禅定門」を伝える寺。

「西林寺」(地図Q・拡大して貰うと「西林寺」が現われる)
相馬家と深い繋がりがあった大寺で、妙見八幡社が守谷城中より遷されたという。小林一茶も将門にちなんだ句を詠んでいる。

「愛宕神社」(地図R・拡大して貰うと、だいたいの位置が出る)
将門が京の愛宕に擬して、創建したと伝えられる。

「郷州海道」(地図S←団地があるので、だいたいの位置だが(^_^;))
愛宕から上高井を経て、山王に通じる道で、ここも将門と関連づけられているが、現在は団地街となっている。

さて、南部に来て、この「今城」のある辺りも、だいたい守谷城と繋がってたんじゃないかと思うけど、この辺りを最後に、あとは水河が流れてたんじゃないかな〜という気もする。
地図T(拡大して貰うと、だいたいの位置が出る)

「今城」のある台地から
こんな低地が臨める

この先に見える森あたりは島と言うか、そういう感じかなと。後で行ってみる。

今城跡」。小さな敷地で、今は「うららか公園」という(パノラマ2枚)

見てわかる通り、周囲はビッチリと住宅が建ち並んだ町の中にある(^^ゞ。
他にも地図には、この規模の緑地や公園がいっぱいあって、思い切り正直、現地に詳しい人にでも連れて来て貰えなければ、到底探し当てられなかった気がする。。

宅地化で遺構が失われた城のようにも思えるが、その前に調査されたのだろう。「城の様式は極めて単純・素朴で、戦国時代より前の城と推測」と案内版に書かれ、さらに「自然を利用した簡素な土塁を造った程度の城」ともあった。

あと、これは立地的な事って気がするが、「生活のための城ではなく、戦時用の城砦」とある。このすぐ近くに守谷城があるから、「安定的に住むならそっち(^^ゞ」という結論を感じる(笑)。

伝説として、「天慶元年(938)平将門がこの地に「興世王の分城」を築き、今城と称したという伝えがある」との事だが、これも「なぜ興世王なのか」と思わされる(笑)。

興世王は、将門を新皇に仕立てた人物で、「坂東八ヶ国の除目」というのも、興世王が主宰して行なったわけだ。「まぁ京から来たのだろう(^^ゞ」という感じがする。
が、その主宰の除目で、彼は自ら「上総介」になってるし、捕えられて殺されたのも上総国で、ここにはあまり関係ない感じがしなくもない(^_^;)。。

といった所から、どうも「地理に詳しい現地人が居城を築くような場所ではないからかな〜」と思ってみたり(^_^;)。

前置きが長くなった(笑)。城跡に登ろう(パノラマ2枚)

小さな丘の上は、こんな平地がある(パノラマ5枚・180度以上)

「今城(いまんじょ)」と呼ばれたのがいつからかは不明。城があった当時からの正式な名ではないようだが、「今造られた新しい城」という意味だ。

戦国期の相馬守谷氏に繋がる系図の中に、「相馬忠重」という武将が登場する。相馬氏系図
忠重は守谷にいたわけだが、南北朝時代は南朝に属したので、「忠重は城を築いて(南朝の)北畠顕国を迎えた」という記録がある。

それに相当するのが、この「今城」ではないかと見られているのだが、残念ながら、「北畠顕国」なる人物が、北畠親房や、その子の顕家(以下三兄弟)と、どういう繋がりある人なのかは知らない(^_^;)。

ただ、相馬忠重が南朝方に属したのは事実だし、大宝城関城と構造がよく似ているそうだから、可能性は高い気がする。
あと、だいたいこの地域は水辺に城を作る物ではあるが、この「今城跡」については、「二勢力による拠点の取り合い」と見ないと、築城の必然性が頷けない気がして(^^ゞ。

ちょうど最近「霊山」をやったので、やはり順当に北畠親房・顕家の辺りから行こう(^^ゞ。(2009年4月<霊山神社>内
(ちなみに大河ドラマ「太平記」では、父・親房を近藤正臣が演じていた。イメージ的に、今回の話に素晴らしく合致してる気がする:爆)

1338年、北畠顕家が戦死すると、南朝は劣勢を挽回すべく、陸奥・遠江・土佐・九州に行かせる軍団を結成。顕家の弟・顕信を、顕家の後任として鎮守府将軍に任命、その父・親房とともに陸奥に下向させた。

ところが船団は強烈な暴風雨のため、あるいは戻され、あるいは遭難し、あるいは流されて他の浜に漂着した(^_^;)。
そんな中を何とか関東まで来れた部隊も、安房やら相模やら武蔵やらで各々捕えられた。。。

しかし北畠親房は、遭難を免れ常陸に着岸(^_^A)。小田・関・下妻といった諸氏と連携して、阿波崎城に拠ったが、これは佐竹・大掾・鹿島らに攻撃され落城。。

親房は脱出し、小田城に迎えられて、「神皇正統記」なんか書いたりしつつ(笑)、関城・大宝城・真壁城などと呼応して、南朝勢力を築こうと努力したのだ。

結局、1343年までに、これらの努力は水泡と帰してしまうわけだが(汗)、そういう渦中だろう、今城に拠ったと思われる「北畠顕国」も、北朝軍に攻められて敗退したそうだ。

こんなドタバタの中での築城と思えば、立地条件がどうのというのも酷だろう(^_^;)。陸に上がった南朝・北畠氏を迎えるべく、取り合えずせっせと土塁を築いたのかもしれないし、何らかの事情で、ここに一所を構える必要もあったかもしれんよね。。

いかにも孤島のような一郭

これより、昔は利根川水流にあったんだろうな〜と思える「高野」に向かうので、この「今城」の周辺に残る、他の将門伝承についても記しておこう。

具体的な伝承地と言うより、「地名」に関するものだ(^^ゞ。地図U
まず「乙子」←「おとご」と読むが、将門が守谷に城を築いた時、地下道を掘って抜け道とした「落口」があり、転訛して地名となったそうだ。

小山」は、将門の老臣・増田監物が砦を構え、「古山」と称したという。
「今城」と「古山」が、「新旧」みたく対応してるのかもしれないね(^^)。



<南部「海禅寺」>

次に連れて行って貰ったのが、「4、南部」の「海禅寺」である(^^)。
地図V(かなり拡大すると「海禅寺」が現われる)

「海禅寺」は、このような小丘の上にある(パノラマ3枚・ほぼ180度)

こういう風情を見ると、城跡とまでは行かなくても、ちょっとした屋敷の跡地だったのかな、という気がしなくもないが、この辺りは「高野」という地域で、千葉県との県境がすごく近い。昔は近くまで利根川が迫った(囲まれた)島だった気もする。

で、千葉県にも「高野」という地名があって、やはり「将門の別荘館があった」と言われるんだよね(笑)。(2008年12月<平将門の別荘(高野館跡)>

こちらの「高野」のちょっと北に、「鈴塚」という地名が確認できる。地図V←再び(^^ゞ。
今回は行かなかったけど、この「鈴塚」という地名は、「将門が挙兵する前に、藤原純友がはるばる東国に下り、この地に、平将門と共に大鈴を埋めて塚を築き、互いに戦勝祈願を行った」という伝承があるそうだ(^^)。

天慶の乱における、もう一人の叛逆者・純友が、「将門と東西から呼応して政権を倒す計画を話し合った」という逸話は、関西あたりを中心に、比叡山にも伝承地として残ってるそうだけど、この坂東の地では、純友に関わる伝承地って、私自身としては全く会った事がないので、ちょっと面白いなと思った(笑)。

ただし、この「海禅寺」に残る伝承は、将門の住まいでも純友の来訪でもなく、冒頭に出した「御霊山」と同じく、「七人の騎馬武者(影武者)」の類である(^^ゞ。

←まずは石段を上がって……、
↑正面の本堂にお参り(^∧^)<ナムナム

ここにも「海禅寺縁起」という縁起書が伝わっており、「承平元年(931)、平将門が創建したもので地蔵を本尊とする。将門は妙見菩薩を崇拝し、その加護によって伯父の常陸国香を討ち果たし、遂には関東八洲を制して、相馬郡に居城を構え、平新皇と称した」という。

また、「守谷の将門伝説」パンフによると、「将門が偽都を築いた承平元年(931)、高野山に擬して創建した事、本尊の地蔵は、将門の娘・如蔵尼の持仏である」事も書かれており、寺には将門の位牌、「徳怡廉三大禅定門」があるそうだ。

ちなみに、将門主従が王都の建設について語り合ったのは、「将門記」によれば、天慶2年(939)の12月より後のようだから、偽都建設としてはちょっとアレとしても(笑)、この海禅寺の寄進者というのが興味深い。
寛文4年(1664)、守谷一万石の領主であった「堀田正俊による」というのだ(^^ゞ。

さらにここには、「将門および7人の影武者」の墓と称する供養塔があるのだが、これが江戸時代の物という点も興味深い。

また、相馬氏の数代の位牌もあるようだ。
実際「海禅寺」という寺に、相馬氏の歴代当主の墓があると、歴史関係の本で見た気がするから、相馬氏にゆかりの深い寺である事は確かだろう。
←後で写真を見たら、何か霊症のように、また王冠でも輝くように頭部が光って写っていたので、正直ビビッてしまった(^_^;)。。

ちょうど夕陽が後ろから射してはいたようだが、現地ではこう見えなかったと記憶するので。。。
↑「七騎塚」将門および7人の影武者の墓
全部で8基あり、一番右が「平親王」とある→

「7」という数字は、元から仏教的にも重視される数字だろうが、千葉氏に限れば、祀る妙見をシンボルに、北斗七星から来るとも言われるし、北極星を足したら「8」になる。

頼朝に初の長男・頼家が生まれた時、千葉常胤が七夜を勤めた上、6人の息子達と参集して祝い、それが事の外めでたいと頼朝が喜んだ話がある。
6人に常胤を足して7人、実は孫もいたので、これも足したら8人。

こんな所も、「6」「7」「8」の曖昧な点だろうか(笑)。
しかし6人の子供の家系は房総じゅうに広がって子孫を繁栄させ、頼朝の感じた「目出度さ」を長く実現させた。

さてさて、以上で守谷レポ終了。
ご案内頂いた小野寺維道さまには、微に入り細に入り、本当に丁寧にお世話を賜りまして、心より厚く御礼申し上げますm(__)m。

最後に、去り際に写した「守谷の記念」をば(=^m^=)。

守谷SA(サービス・エリア)で見た、その名も「守犬」!  「もりけん」と読むそうだ(笑)。
筑波山で見たガマ蛙の像がキッカケで、母親が被り物を作ってくれたそうだ。
鉱物は納豆(水戸産だろう:笑)と肉。
「守谷」の位置を教える「守犬」→

グッズとか出ないのかな(^^ゞ。茨城県内のお土産専門の店とかにあるかしらっ♪
千葉県における同名の現職に対抗して、下総のケン知事になってくれ!(核爆)

以上、関連事項は、
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内
2005年11月<うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内
2007年5月<まずは筑波山まで(^^ゞ>内
2007年9月<松ヶ崎城跡(柏市)>内
2008年4月<上山城>内
2008年7月<牛久城跡、2>内
   〃   「千葉県の動乱vol2」内<古河晴氏の反発〜第二次国府台合戦(1560〜1564)>
2008年8月<史跡と順路について(@テキトー画像:笑)>内
   〃   <取手市「竜禅寺・三仏堂」>内
   〃   「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」14〜20話内
2008年9月<将門再起、「石井の井戸跡」(坂東市)」>内
2008年10月<常総市「六所塚考」>
2008年12月<兵主八幡神社>
   〃   <平将門の別荘(高野館跡)>
   〃   <布瀬城跡・香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)>内
   〃   「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」40〜46話内
2009年4月<霊山神社>内
2009年5月<妙見社・国王社(妙見曲輪)>
2009年6月<「布施城跡」と、その周辺(柏市)>内




■4月・千葉県松戸市など
<恒例(笑)桜祭りと夜桜>


↑3月飛ばしてね?(爆)
今年はすんごく忙しかったので、桜の前のみならず、その後もバババーッ!と4月を飛ばして、5月まで行っちゃうんだなぁ(^_^;)。

ご存知「常盤平さくら祭り」!
今年はちょーど満開だった(≧▽≦)。

地図W←新京成線の「八柱・常盤平・五香」の3駅区間の線路の内側・沿道で行なわれる。
この「常盤平さくら祭り」の名は、この3駅の中間が「常盤平(ときわだいら)」だからじゃないかと思う(^^ゞ。
全国的にも長い桜並木なのだそうだ。

で、今年は直前まで、全く咲いておらず、「今年はハズレだな〜」と言ってたのが、前日の夜あたりから急に進度が早まって、当日イキナリ満開に達した(笑)。

同じく期待してない人が多かったのが、「咲いてる(゚.゚)」と気づいて慌てて出たか、北のミサイル発射予定日だったからか(汗)、日曜の午後になってから出掛けたら、道行く途中から大渋滞だった( ̄∇ ̄;)。。。

それにしても、よく咲いてたな〜良かった良かった(^_^A)。

屋台の食い物は半ば食事がわりでもあるので(笑)、甘い物は殆ど食べないが、今年はこれまで食べた事なかった、チョコバナナなんか買ったり、右のは「白鯛」という、モチモチ食感の鯛焼き。

泳げ! 桜の波で!→

甘い物に手が出た原因の一つは、右下の「キュウリ一本浸け」かな!→
これが一本あるだけで、「味の変化」&「喉が潤う」の2倍効果がある!
しかも屋台物としては破格の150円だぁぁ〜〜!(笑)
カッパの絵を幕にかけてる屋台だった覚えがある(^^ゞ。

味噌は、そんなに塩辛くなかったし、好きなだけ塗っていいので、「口の中が甘〜い(*ζ*;)」と思いつつ、歩きながらだと飲み物も飲みにくいから、タップリめにつけてもGOOD!

よくドラマで、新米の主役が、師匠や先輩に「客の気持ちになれ」と諭される下りがあるけど(笑)、これもそんな感じに、現場(屋台)を練り歩いた人が考案したのだろうか!

ドラマだと、だいたい最初は、「流行に敏感」という設定になっている若い女性達が飛びついて、ある屋台だけに、物凄い行列が長蛇となって続き、その時たまたま来ていた有名番組のカメラに写ったり、インタビューに答えたりして、テレビを通じて一躍有名人!!

こんな感じだが、ここではそうではない。
誰かがキュウリを齧ってるのを、老若男女を問わず大勢が発見。
行きでは5人ぐらいしか出会わなかったキュウリ齧りが、帰りにはもう30人には増えている!!
これで2009年度「屋台の帝王」は決まりだっ!(何それ(^^;)) マスコミは必要ない! 低燃費・高性能。それが東葛飾、「常盤平さくら祭り」である(笑)。

常連者の厳しいチェックが入る長蛇の屋台(爆)

他に新商品は……「あげもんじゃ」というのをよく見掛けたかな(^^ゞ。
「チーズ入り」とか「雷門」とか書いてあった気がする。

やがて並木道の提灯がともって夕桜となり

フラッシュOFFとONの変化が面白い時間帯なので、やってみた(笑)。

人ごみの中で立ち止まるのも難しいんだけど(^_^;)、通常は車も人もスピードがあるから、やっぱ祭りの時がチャンス!

オフ
オン

祭りと通行止めは終了し、夜桜を楽しむノロノロ運転の車両が通る時間帯(笑)。

松戸市の端っこ、六高台の桜並木でも桜祭りが行なわれる。地図X。もう祭りの後だが通ってみる。

八柱〜五香の桜並木に比べれば全然短いが(^^ゞ、こちらは二車線あって、追越可能だから、車でもノンビリ見れる(笑)。

寒の戻りで、咲き切れなかった枝が長く咲いてる年もよくあるが、今年は一気に咲いた所が多かった気がする。

以下、祭りの後で撮った、アチコチの風景(^^ゞ。
←明るい青空の下に咲く桜と、ちょうど満月を背景にしてるため、思いがけず綺麗なシルエットが写せた一枚↓

←ドッと時間が過ぎて、4月も終わりごろ(^_^;)。梨の白い花。

こうして瞬く間に春は過ぎ去り(笑)、次回は5月から入りたい!
まずはGW、千葉県の「平忠常ゆかりの伝承地」をお届けしたい(^^)。

その後、だいぶ時期が近付いちゃって、先が読めないけど(^_^;)、取り合えず6月末(二週間前(^_^;))の相模台城跡を行こうと思ってるが、もしかして、去年の夏と冬の暮れにいった高柳城跡レポと取替えかな、とも思ってて、チョイまだ未定〜〜〜!!

以上、関連事項は、
2005年5月■4月「常盤平さくらまつり」@松戸・以降
2005年12月<常盤平・桜まつり><桜めぐり(六実・常盤平さくら通り・八柱霊園など>
2006年9月<1日目・花と嵐の(笑)「常盤平さくら祭り」@松戸>
2007年7月<常盤平さくらまつり、1>
2007年8月<常盤平さくらまつり、2><六高台の桜と五香の野馬土手>
2008年7月<六実の桜(松戸市)>以降
2008年8月<お花見続行(^^)>


<つづく>

2009年07月16日
 
     




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