<2008年・城主のたわごと8月>




2008年4月末・柏市「広幡八幡宮宗社」(増尾城近く)。

そして、いよいよ5月「平将門ツアー@茨城」編の第一弾!




     
  前回から続くお花見モード(^^)から徐々に、まずは4月末に参拝した、千葉県柏市「広幡八幡宮宗社」。前もお届けした事のある「増尾城」の裏手の神社である。

そして5月GWの「将門ツアー」に入るが、範囲は全編とも茨城県で、だいたい3回シリーズぐらいになると思う(^^ゞ。
今回はその第一弾。「将門誕生〜青少年時代編」。
3日間行った内の1日目と2日目。範囲はだいたい取手市と坂東市、そして常総市あたりを。



■4月・千葉県松戸市〜白井市〜柏市あたり
<お花見続行(^^)>


↑前回の続きっぽくて恐縮だが(^^ゞ、先月の最後に出した柏市「高柳」の近辺。だいたいこの辺。地図A

逆井〜藤心あたり
遠目にほの明るい桜


並木道に所狭しと咲き揃う桜もあでやかだけど、桜の淡いピンク色は深緑の中でよく映えるよね(^^)。


今度は松戸市にちょっと入って、地図B

五香と六実あたりのハナミズキ
鮮やかな紅白が交互に(^^)

手賀沼北岸の丘陵の風景。最後の頃の桜(地図C

次は我が里の自慢(笑)。場所は藤ヶ谷あたりか、白井市に入ってるかもしれない。地図D
千葉県は梨の収穫高が全国一なのだそうだが、まぁそれは千葉県がデカイからというのもあろう(^^ゞ。
それでも、特に松戸や柏ではよく梨を作ってる光景が見られる。

パノラマ4枚(180度以上)

梨の花ってこんなよ(^^ゞ
形は桜の花に近く、色は白い

後になって「梨の花じゃなかったらどうしよう」と思っていたが、夏になったら、ちゃんと梨の実がついていた(笑)。

次はタンポポ(^^)
もう4月も終わりの頃だった

今年は3〜4月は地獄の忙しさだったけど(笑)、5月以降は少しユトリも出て、あちこち出まわった所、タンポポってかなり遅くまで咲いてるねっ(^^ゞ。



■4月末・千葉県柏市
<「廣幡八幡宮宗社」と「宮根遺跡」>

行ったのは4月末。やっと忙しさから解放されつつあった時期で(^_^A)、こうして散策するのも久々という感じがした。

ここに来たキッカケは、増尾城近辺を通る時、近くのニッカウィスキー工場を取り巻く深い森林の道行きに案内標識があって、そこに「宮根遺跡」と表示されてるからだった。

「何かあるらしいよ(゚.゚)」といつも言うんだが、この辺りを通る時は、いつも急いでる事が多いから、亭主は「そお?」と通り過ぎる。
「今度曲がってネ!\(>o<)/」とリクエストし続けた何度目か、亭主は「よし! 曲がるゾ!」とホントに曲がった(笑)。

そして意外にも立派でイイ感じの神社に出会えたので、亭主も満足いっぱいで、「今度また来ようねっ(^^)」と言い合って、それきり来てない(爆)。

灯台下暗しとはこういう事を言うのだろう(笑)。

場所は地図E。北西には、2005年10月の「たわごと」<増尾城址公園(千葉県)>で紹介した「増尾城跡」がある。

「廣幡八幡宮宗社」
鳥居

↑舟の突端か、渓流を分ける突き出た島のような正面で、なかなか印象深い(^^)。

社の森も樹木の背が高く、コンモリとたいそう豊かで、その合間を潜っていく参道が清々しかった。

神社より先に、遺跡の話からで恐縮だが(^^ゞ、「宮根遺跡」というのは、「縄文時代と弥生時代の複合遺跡(住居跡)」という事だった。
縄文遺跡の多い市内でも珍しい例という事だが、両時代が重なる遺跡って多いのかな、少ないのかな?

古墳の跡に神社があるケースなら見た事があるが、縄文とか弥生の頃の住居跡に神社が出来るというのは、「ここには遺跡がある」という意識が昔の人なりにあって、という事なのか、全く関係ないのか(笑)、何しろ殆ど「一緒の場所(^^ゞ」と言っていい位置に両方あった。

拝殿に行き着く直前に、ちょっと周囲の景色を撮影♪↓

参道の途中。拝殿に向かって左側(パノラマ4枚180度以上)

↑上記、右にある拝殿が↓正面
右側には「富士浅間大神」が祀られている。昔はここから富士山が見えたのかな?→

この神社は宇多天皇(867〜931)の勅願所として作られた。寛平年間(889〜897)という。

宇多天皇(-_-)ヾ。ちょうど「作品の広場」で書いてる「将門雑記」にも、将門(903?〜940)が生まれる前に、「菅原道真を重用しようとした天皇」って感じに登場するね(笑)。

続いて鎌倉時代になると、1193年に、下総の国の第一鎮守として、柏市近郷一帯の総鎮守として再び社殿を興され、ここで改めて「広幡八幡宮宗社」となった。

いよいよ拝殿の敷地の真ん前にやって来る。↓

拝殿の方向(パノラマ4枚180度以上)

拝殿に向かって手前右には「大杉神社」がある↑

後方、参道(来た道)方向(パノラマ4枚180度以上)

この神社は、前も紹介した「増尾城跡」のすぐ近くにあり、歴代の増尾城の領主が篤く崇敬して、例大祭には幣物をもって奉拝した事が「東葛飾郡誌」に記されている。

ちなみに、ここ増尾には、初期の相馬氏と、後には相馬氏から分流した相馬岡田氏などが居たと推察され、戦国期には高城氏が支配していた領域にあたる。

江戸時代になると、1649年8月に三代将軍・徳川家光が御朱印高拾石を奉献、1757年には伯州刺史、藤原正珍が石華表(鳥居)を寄進した事が「下総旧事考」に記されている。

建立800年を迎えるにあたり、1993年に境内を整備など行なわれた。

拝殿の左脇(向かって右手前)の「大杉大神」。その手前に「伯州刺史、藤原正珍」が寄進した鳥居。当時の字が彫り付けられているのが見られる。
拝殿から参道を取り巻く鬱蒼たる森を写す→

境内には、我々のようにフラッと立ち寄って、周囲を眺めたり森の雰囲気を味わっている人もいたけど、わき目もふらず真っ直ぐにやって来て、拝殿に深々と頭を下げるとすぐ帰る人もいて、土地の人々に日々崇敬されている様子だった(^^)。

また、「土小たんけんたい(探検隊)」と子供の字で、この神社や周辺の歴史について書かれた立て札が幾つか見られた(^^)。
地域の子供達が書ける限りの漢字を使って、一生懸命に訪れる人のため地域の説明を書いてくれているのだ(^^)。

例えば「広幡八幡宮」は、「広はた八まん宮D」と題名が書かれている(笑)。

そして「食べる物も着る物も自分たちで作ってくらしていました」と神社が出来た頃(800年代)の事や、夏の祭りや元旦の「浦安の舞」など、今も土地に住んでる人の暮らしも丁寧に書き伝えてくれた♪

子供達ありがとう(^O^)/。こたつオバサン、とても役に立ったよっ!

拝殿の方から境内を写す(パノラマ5枚180度以上)

↑「大杉大神」 境内の敷地 そして拝殿・奥の本殿という配置

その、ほんの隣の敷地が「宮根遺跡」(^^ゞ(パノラマ2枚)

↑奥に見えるのが、今行って来た拝殿と本殿の並び(^^ゞ。
つまりホント神社と敷地を殆ど一緒にしてるのが、この「宮根遺跡」ってワケ(笑)。

宇多天皇の祈願所というのは伝承だが、平安期ごろに何らか神聖な場と認識されてたのかもしれない事と、弥生時代に人々の生活の場だった事には、その間の時期を埋める痕跡が判らないので何とも言えないが、この辺りは遺跡の条件となる一般説に言う、「水を得やすく獣や植物が豊富で、人が住むのに都合の良い場所だったのでは」と案内版には書かれてあった。

水の便が良いというのは、「手賀沼に注ぐ大津川左岸の標高約20mの舌状台地の上」と位置表示があり、遺跡の名は「増尾字宮根」の地名から「宮根遺跡」とし、昭和28年(1953)の調査で、弥生時代の住居址が三軒検出され、それとともに、そのすぐ下から、縄文時代の住居跡が埋められている事が発見されたという。

つまり、縄文時代に住んでた人がいて、その後から、縄文時代の人の住処の上に、弥生時代の人がさらに住んだ……という事が判るそうだ。

ここにも子供達の字で、水辺から魚や貝、野山から獣や木の実を取れる住みやすい場所で、子供も楽しく暮らしていた、と書かれ、住居を囲む柵や、食べたり使用していた貝殻の絵なども描かれていた(^^)。

また案内板には、訪れた人に同じ事を何度も読ませずに済むよう、子供達が書いた文章と重ならないように、上手に書き分けの配慮されている点にも感心させられた(^^)。
神社と遺跡をさらに越して奥に入り、社と遺跡のある森を写す→

小さな田畑が続き、なかなか去りがたい風情の夕暮れ時だった(#^.^#)。

以上、関連事項は、
2002年8月<増尾城跡(柏市)>

2006年10月<増尾城址公園(千葉県)>



■2008年5月・茨城県南西部「将門ツアー」
<史跡と順路について(@テキトー画像:笑)>


さてさて、GWに突入すると、亭主が急に「将門ツアーをするっ( ̄^ ̄)」と言い出した。
1976年の大河ドラマ「風と雲と虹と」の再放送を見て、触発されたのである!(笑)

「する」と言い出されても、何をアテにしてどこに行けばいいのか、よく判らないので、時代劇専門chのアナウンスを頼りに外に出た(^_^;)。

あ、ちなみにドラマ再放送を期に始まった、現在連載中の「作品の広場」内「将門雑記」は、このレポより先にスタートしているが、連載終了はレポ終了より遅れる見込みなので、レポ途中に貼られる関連リンクは、連載の進行に合わせて、後から都度貼らせて貰う(^^ゞ。

その点、あらかじめご了承願いたい。

←字ばっかじゃアレなんで、適当に写真を出す(爆)。
これは八重桜だね(^^ゞ。4月末ごろだったと思う。

さて、この「風と雲と虹と」が今年4〜6月に再放送された時、ドラマの他に、スカパー・時代劇専門チャンネル独自企画で、将門の生涯を追う史跡シリーズみたいな番組が放送された。

大河ドラマがドラマの後に流すコーナーに似た編成で、上記で「時代劇専門chのアナウンス」というのは、これの事を指している(笑)。

6回編成で、1回が2分程度。全部あわせても12分程度なんだが(^^ゞ、この画像が今回の旅行には大変に役立った。

ま、今回はわりと急に行く事になったのもあって(^^ゞ、私もこの程度なので、そんなに期待されてもアレなんだが(笑)、「するっ( ̄^ ̄)」と自ら言い出したのがシャレじゃなかった証拠に、普通なら「だいたいこれでいいかな(^^ゞ」って感じの主人が、このツアーではアチコチの史跡を捜し求め、異様な熱意と執念でハンドルを取り続けた事には驚いた(笑)。

実際それぐらいの覚悟がないと、将門の史跡というのは見付かりにくい(^_^;)。

実は、旅の途中で寄ったお店の方が、おウチの奥からわざわざ史跡の本を出して来て下さった。

内容は全国の将門の史跡を調査されたもので、将門の研究をしてる学者さんから頂いたというお話しだったが、今は絶版な上、数量限定だったため、千葉県内の図書館では、全三巻編成の内、二巻までしかない(^_^;)。そういう貴重な本である。

テキトー画像・その2(笑)→
芝桜ですね(^^)。今年は特に綺麗だった。

で、今回あれこれ調べたり廻って見た感じで思ったのは、将門の割拠した範囲や、行なった合戦の場所は、意外と特定しにくいのかもな〜という事だった。

1、理由のトップは「非常に古い時代だから」だろう。
2、次に河川の変遷や宅地化の波もあるだろうか。
3、東北などにもよく見受ける現象だが、よく同地名が複数箇所に渡ったり地名が移っている(かつては複数あったが、今残ってる地名箇所が限られている可能性も含む)。
4、「謀反人」「朝敵」という事があるのだろう、将門の記録が少ない事が上げられる。
5、理由は「4」と同じだろうが、行く先々で「墓が暴かれる事を恐れて」という表現に出会う。
6、伝承や史料などの検証過程で、史跡の位置や判定基準がビミョーにズレる(^_^;)。。

全部の史跡に「伝」がつく。
その「伝」も、どの時代から出た「伝」かわからない。

前はどこどこにあったが、今は場所が移って……といった話も随所に聞くが、これは「2」の事情もありそうで、東京近郊は特に顕著だろうが、河川の位置が変わるなどは全国レベルで多そうだ。

が、将門に特徴的なのは、同じような地名が各所に複数点在したり、地名が変わっているとか、読みは一緒だが漢字が変わってるというのがある。

確かに読みを取り替えると「そう読める(゚.゚)」という地名が多々ある。
これには多分に「3」の事情も考えに入れる必要があるのだが、殊、将門に特化した事情として言うなら、例えば「漢字が変わってる」というのも、よく聞く話として「場所を隠すため」というのがある。つまり上記「5」の事情によるものだ。

関係人物の墓や塚になると、何度移動したのか何箇所あるのかもわからない(^_^;)。。
現地で「ああいう事情の方だから、特定のお寺とかに痕跡が残るというのも、なかなか……」といった声も聞いた。

現にウチの近くでも将門の史跡巡りが出来るコースがある(笑)。
また誤った伝承地については、後に将門流を継いだ相馬氏の影響がよく言われる。
顕著な例としては守谷城(茨城県)なんかがそのようだ(^_^;)。

ただし、それなら子孫や土地の伝承を覆すに足る正確な史料があるのかと言えば、そうでもない。

←テキトー画像・その3
バラだね(^^)。5月。

そもそも記録として詳細な「将門記」自体、詳細に記されてない部分もあれば、後で間違いを指摘されてる箇所もあるという。
「将門記」の筆者自身が、「間違ってる事もあるかもしれないから、後世わかったら調べて欲しい」と追記してるようで、思えば、将門記が書かれた時点から、将門の研究は始まっていたわけだ。

大河ドラマでも「最近の研究でわかった場所は」という説明がついてるシーンがあった。

こういう場所が学説などで一度規定されたら、その後は動かない物なのか、それともまた後になって覆されるのか、そこの所もよく知らない(^_^;)。

もしかしたら、行政単位(教育委員会とか)で一度、特定して碑を建ててしまってから、後になって「新説によると、この場所は違っていた」とかいう事もあるのかもしれない(^_^;)。。

実際、去年まで出羽三山の羽黒山にある五重の塔に「将門建立」と書かれてたのに、今年の同旅行ガイドからサックリ削除されている(汗)。←すかさずチェックが入る辺り(笑)。

で、将門がいた地域は「下総」で、現在の茨城県南西部と千葉県北部が相当する。
ウチも将門が住んだ「下総」であるからして(^^ゞ、将門の当時から何らか関係した場所が無いとは言い切れないし、将門の子孫が住んだという伝えもあるから、マジでどっかの段階で慰霊場などを移した事があったのかもしれない、と思うようになった(笑)。

さらに将門は京に居たこともあるし、ドラマでは陸奥にも行った事になっている。また乱の最後には、下野や上野にも出張っている。

とは言え、今回は一先ず茨城県に行ってみた。
てのも、旅の途中に見せて頂いた本にも全国各地の関連史跡がありつつも、3冊の内で茨城県には1冊が費やされていた覚えがあるし、何と言っても時代劇専門chで取り上げた史跡が全部茨城だからだっ!(笑)←旬の内に行くのが花と悟った。。

最後は節句の頃に食った精進料理
舟に見立てた器だろう、鯉幟が(^^)

次に順路についてだが、GWの3日間で、まずは南から北に攻めて行った(^^ゞ。
ウチは千葉県だから、近い方から始めて、最後に遠くへ行ったという感じ。
近い方は利根川の県境を茨城県に入って、まずは取手。遠くは西は古河あたりまで、北は筑波山の北、東は石岡。だいたいの範囲→地図F

さらに、実際に将門の生涯で出て来る地名は、あちこち点在してて、当たり前だが、一方向上に(例えば南から北に)行くに従って地名が出て来る、という具合ではない(^_^;)。

いつもだと旅行した順番、つまり1日目に行った所・2日目に行った所、という順序で紹介するのが、この「たわごと」の定例スタイルだが、今回はわかりやすさを中心に、出来る限り時事に沿って提示しようと思う。

なので、一応巡った順番を書き記しながら進むが、「ここは後で提示する」と言いながら先に進むスタイルになると思う。煩雑感があれば、お許し願いたい。

というわけで、1日目・2日目・3日目と、わりとスグに到達し、「3日目になってから後がボリューム大」という構成になる事も最初に断っておきたい。



<取手市「相馬惣代八幡宮」>

今回・第一弾のレポに相当する雑記は既に上がっているので、まずリンクをしておこうか(^^ゞ。

以下「作品の広場」内
将門雑記(風と雲と虹と)01〜07話/同08〜13話/同14〜20話

さて、千葉県から行くとなると、だいたい利根川を渡るルートが二箇所ある。西は「新大利根橋」、東は「大利根橋」。
この日はまず取手を目指したので、東の国道6号線を行き「大利根橋」を通って、茨城県取手市に入った。地図G

利根川「大利根橋」を渡り
南中原の「294号入口」を左折(地図H

続けて「白山八丁目」(←この写真はまだ「七丁目」)で左に入る道を行くと「相馬惣代八幡」に行き会える。

鉄道だと、常総線の「新取手」が近い。徒歩20分ぐらいだろうか。
地図I←到着

到着(^^)。神社は↓の森(パノラマ4枚180度以上)

↑の反対側も景色が素晴らしかったので(^^)↓(パノラマ4枚180度以上)

松戸からじゃ、旅行とか言うには「貧乏これに極まれり」って程、近い距離よ(笑)。
だけども、取り合えずここで「坂東に来たっ(≧▽≦)」とか言って二人で騒ぐ(爆)。

この道を向こうから「みんな元気かー!」と馬に乗って走って来る(加藤剛の:笑)将門の姿を思い浮かべ、「将門さまぁ〜(TOT)」とウルウルするのが「坂東の作法」であるっ!!

それに折りよく、このGWを迎える直前、いったん下がってぬか喜びさせたガソリン代が、前より跳ね上がってバカ値上がりした(汗)。。

万が一「ナニ松戸とな? 相馬郷のそばか。近すぎっ!」と将門様の興味が薄れた場合、「国衙の役人どもが税を高くし腐ってからに、オラ達どこにも行けなくなっただよぉ〜(TOT)」と泣き付けば、将門様はそれほどお怒りにはなられない(呆れない、とまでは断言しにくい:笑)。

てなわけで、一しきりはしゃいだ後は、ホノボノしたタンポポの原↑を離れ、神社に向かうだっ!

ひときわ高い樹に守られた鳥居
(相馬)惣代八幡宮

説明版とかは何も無かった(^^ゞ。また地図にもこの神社にも「惣代八幡宮」としか記されていない。
これの前に「相馬」を付けるのは、単にこの辺りが相馬御厨だったか相馬氏が割拠していたか、古代から相馬郷とされる地域だからかもしれない(^^ゞ。

創建時期はハッキリしない。相馬氏が居た頃には、この神社も何らか手厚く祀られていたのかもしれないが、それよりここは「将門生誕地」として紹介される神社らしい。

千葉県にも佐倉の将門山だったかに将門誕生伝説があるらしく、そっちは父・良将の居館だったとか、この取手は母方の館があったとか、どっちで生まれたとか色々散見するが、取り合えず、ここで我々は伝承に沿って「ハッピ・バースディ・トゥ・ユ〜(^O^)」を小さく口ずさむ(笑)。

鳥居そばにあった座像
境内にあった石

二つの石は、江戸期とかによく見られる「力比べ」のための物か、男女混合の信仰によるものか……。
他に気付いた点は、やはり鳥居に入る前、「三夜」と書かれた石碑があった事だ。

「三夜」ではなく、注連縄のかかってる部分に「廿」と書かれて「廿三夜」だったかも。
月待講かなと思う。ウチ辺りでも沼南町で見掛けた事がある。

ちなみに沼南町のその地域というのも、今では「将門ウォーキングルート(^^)」とか題されている辺りだ(笑)。将門と月待講は何か関係があるのだろうか(強いて言うなら、これも相馬氏絡みって感じがする:笑)。

月待講は、特に利根川の周囲に見られると紹介するサイトもあって、この先に行く筑波山でも、山中のちょっとした神社の傍や、道の傍らに「〜夜」と書かれた石碑がよく見られた。

だいたい江戸期の碑か、パッと見でも新しい(ウッスラでも字が読める)石碑が多いので、江戸期に庚申が大流行した事と関連があるのだろう、と長く思って来たが、月待講の発祥は不明確であるらしく、中世に遡るような事が書かれてる物も見掛ける。

本殿の傍らや裏手に並ぶ石塔↓
本殿の裏(横)から鳥居の方を写す→
桜の花びらが散って美しかった(^^)

本殿の賽銭箱には三つ巴の紋があり、「奉納」と大きく掘り込まれ、立派で新しい感じがした。
神社の周囲にも寄進による多数の石柱が、一本一本寄進者の名入りで建てられ、やはり茨城と千葉の寄進者で満ちていた。

説明版も無ければ、殊さらに飾り立てた一切もない神社だが、今もなお関係者に篤く崇拝を集めている空気は濃厚に伝わって来た。



<取手市「竜禅寺・三仏堂」>

↑「相馬惣代八幡宮」から、ほんの一駅ぐらいの距離(^^ゞ。この二箇所までなら歩いても来れそう。
車なら294号線に戻って、さらに先に進み、常総線「稲戸井」駅の1個手前の信号を左折。

「稲戸井」駅から徒歩だと15分ぐらい。やはり294号線を「新取手」方面に戻り、↑信号を右折。あるいはイキナリ南に歩いて行って、途中で左折かも。地図J

←到着。向かいの森にはこんな石塔が↓

涼やかな新緑の楓と(^^)
入口の脇には八重桜の花びら絨毯!

この花びら絨毯が凄く素晴らしくて(≧▽≦)、ここでしばらく足が止まった〜!!

「竜禅寺」山門と駐車場に広がる花びらの散華(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑取り合えず山門を入ってみる。

入った境内の全景(パノラマ3枚ほぼ180度)

ここも「(相馬)惣代八幡宮」と同じく、「将門生誕地」と伝承される寺である。
    ┌←┐
境内を↓ ↑こう進んで折り返す。

その途中にあった「モチノキ」→
取手市の保存樹木に指定されてるらしい。

他に出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)の碑が本堂の前にあった。
千葉県でもよく見掛ける(^^ゞ。千葉県は出羽三山詣の多い県だという。

この「竜(龍)禅寺」は、これから行く「三仏堂」が創建されたと伝えられる延長2年(924)より、15年ほど経った天慶2年(939)を創建期と伝えている。

え〜ちなみに、将門の生まれた年は明確ではないものの、903年と言われている(^^ゞ。
亡くなったのは940年。

誕生地については「下総(現在の千葉県北部と茨城県の一部)」で、祖父は高望王、父は陸奥鎮守府将軍の良将。
良将には国香という長兄、良兼という次兄がいて、弟として良文までが確定的に言える。

他にも数人の兄弟が見られ、どれとどれが実は同一だとか、実は甥だとか色々あるので省略したいのだが(笑)、「将門記」には「良正」という弟までは出て来る(大河「風と雲と虹と」にも原作「平将門」にも良正までは出て来る)。
平家系図←慌てて急遽作成(笑)

将門は「小次郎」と呼ばれ、名乗りから見ても系譜でも兄がいたわけだが、ドラマでは「二人の兄は早世」と、将門が長男として育てられた前提で話が進められていた。

あとドラマでは、生誕地については「下総のどっか」とボカしてるんだけど(笑)、すぐに「豊田の」と具体的な地名が出て来るのね。

豊田は今回の最後に行く(^^)。

寺は「米井山(べいせいざん)・無量寿院」と号し、天台宗。
この山号は、平将門が武運長久を祈願して、ここに参詣した際に、井戸から米が噴き出し、将門がこの吉祥を喜んだ事に由来する(^^)。

折り返して来て見えて来る「三仏堂」

↑この歩道の脇にある「イヌマキ」も大きくて、やはり取手市の保存樹木となってるようだ(^^)。

←そして竜禅寺・三仏堂(正面)
↑板木の古さから、かなり色が暗いが、脇からも一枚(^^ゞ。

なかなかカッコイイ(^^)。

将門がこのお堂の中で生まれたという伝承も、将門の井戸米の伝説に加え、このお堂の創建が、延長2年(924)と伝承され、将門のいた時代と重なる所からかもしれない♪

いま見れるこのお堂自身は、室町時代後期の建築様式と推測され、「禅宗様」と「和様」の混合した建築様式。

内部からも永禄12年(1569)の墨書による木札が発見されたそうで、この年に三仏堂が建立された事が文献からも確認できる事から、かなりの古さと見ていいと思う。
「北相馬郡に残る中世建築として当初の姿を忠実にとどめており、中世から近世にかけての建築の流れを知る上に貴重な遺構」と説明されている。

建物の造りは、正面が三間、側面も三間(間口三間・6.395m/奥行四間・7.309m)の正方形。「平面形式」と言って、他に類のない特徴を持っている。
正面には一間ぶん、さらに外陣が設けられ、案内版によると、「組物は出組と平三斗で、木鼻と板蟇股に簡素な彫刻があるが彩色はない」という。

屋根は茅葺の寄棟造りだが、左右と背景に「裳階(もこし)」という、屋根の下のまた屋根がついている構造で、三方にこれがついてる建物は他に類が無いのだとか(゚.゚)。

ここにいう「三仏」は、「釈迦・弥陀・弥勒」の事だが、建物の内部は、外陣と内陣に別れ、内陣に「禅宗様」の須弥壇が置かれ、この三尊像が安置されている。




















↑お堂の扉が開いていたので、入らせて頂いた(^^ゞ。

1985年から翌年にかけて解体修理が行なわれ、創建当時の姿に復元された。
解体したとき、材料のいたる部分に梵字で経文が書かれており、さらに仏壇下の地下に壷が埋められていたそうだ。

ここも将門生誕地の伝承がある所なのだが、お寺なのでお墓参りの方もおられるから、「ハッピバースディ♪」はあまりに場違いなので控えた(^_^;)。

さらにこの「竜(龍)禅寺」の今いる敷地からは少し離れるが、お寺の管轄として「桔梗の墓」がある。
この「桔梗」は「将門の愛妾」と伝えられる「桔梗の前」の事で、勿論お参りに行ったが、このレポは後日に譲りたい(^^ゞ。



<坂東市「平将門公の像」と「レリーフ」>

取手から坂東に移動し、いよいよ将門の本拠地「石井(いわい)」を目指す(^^)。

地図K←今度は少し距離があるので、縮小地図を。

途中に通る「守谷」駅ですわよ(笑)→

車なので、294号線に戻って北上し、354号線と出合って左折するのが判りやすい行き方だが、我々は294号線を「小絹」で左折し、3号線→252号線を辿って「神田山(延命院)」にお参りした。これも後日レポに廻す。

坂東市に入る
凄くイイ感じの街並(^^)

何しろ、この後のメインは354号線である(^^ゞ。「新町十字路」で左折し、さらにちょっと折り返すような所に来る。地図L

到着(^^)。総合文化ホール「ベルフォーレ(パノラマ3枚ほぼ180度)

「何それ(^_^;)」と言われそうだが、ここにも「見るべき物」があるのだっ!(笑) ↑中央に小さく浮かぶのが……

者ども、跪(ひざまず)けぇ〜!
平将門公なるぞっっ!!!

彡%q <ははーーーっ!!!
(自分で言って自分で平伏するの図:笑)

という銅像がある(^^)。
坂東市で建てたんだろうね、郷土の英雄をこうして市民のシンボルにしているのだっ。

ただ、ここはですねぇ。鉄道だと常総線「水海道」か東武野田線「愛宕駅」が比較的近い気がするけど、駅から歩くとかなりの距離って気もする(^_^;)。。

時代劇専門chでは、「愛宕」駅からバスで30分とか出てた。「原口北」というバス停からだと、わりとスグ。

←バシバシ写真を撮りまくる(笑)。
将門は座像もあるのだが、祟りを恐れて写真撮影は憚られるので(笑)、こうした記念像はとても助かる!

奥の建物の壁一面のレリーフ(パノラマ3枚ほぼ180度)

←これも中央に大きく描かれるのは、たぶん将門だろう(^^ゞ。

その周囲には、先史時代から土地の歴史を支えた住民達の暮らしや、馬で駆け回った武士の様子など、ドラマチックに描かれていた(^^)。

トイレ休憩もあって、建物の中にも入らせて貰ったが、カウンター近くに展示されてた坂東武士に関する著作など、後で読ませて貰って、とても参考になった(^^)。

建物の入口にも象徴の野馬の絵が刻まれる(パノラマ2枚)

で、この日(1日目)はこの後、「国王神社」「石井営所跡」「岩井の井戸跡」「坂東・延命院」(神田山とは別の場所)に行ったのだが、それは後日に廻して(^^ゞ、早々と2日目に入る。



<坂東市「将門煎餅」(爆)>

2日目に入った。ここでちょっと、坂東の町の風景も(^^)。
……と言っても、メインはたまたま見つけた「将門煎餅」である(笑)。

槍の街灯(^O^)
ご存知(?:笑)「将門煎餅」!
看板に
旗!(≧▽≦)

↑最初の「槍の街灯」は、既に用意してたから撮れたんだが、そのカメラを用意する前に通り過ぎたアーケードっぽい所に、確か兜を象ったモニュメントがあったと思う!

こうした町のど真ん中以外にも、田園風景の合間に「将門」という字の入った旗だとかよく見掛けるから、この街灯やアーケードも、やはり「将門を意識(意図)して」だと思う!!!(間違いない!:笑)

「こういうのって謙信・信玄・真田ツアー以来じゃね?」と、亭主もかなり喜んだっ!
こんな近所で、甲信越あたりで見掛ける風情に出会えるとは……と嬉しい(≧▽≦)!
坂東市、がんばって欲しい!

そして、次の写真「将門煎餅」だが(笑)、これは東京の神田明神でも買えるよっ(^O^)。
ここが本店なんだね〜。場所は354号線、地図M お店に入る屋根看板には

「滋養風味<九曜紋マーク>天下唯一『将門煎餅本舗』」

と書いてある(^^)。

銘酒「将門」も買った(^^)
将門煎餅(袋)
中身〜っ(≧▽≦)<オイシイよっ!

そして煎餅の包み紙がまたスゴイ!
今日の地図の上下(北南)を逆さに、下が(昔の)下総。上には、何気に上総まで入ってて、今の千葉市よりちょっと南あたりまで入れてくれてるのだっ(ありがとー(≧▽≦)!)

また、お煎餅の案内書きには「石山寛信先生著・将門史誌より」と、ちゃんと考証された将門の生涯が書き込まれている。

このお土産は、煎餅をやっと今頃食べている(笑)。
お酒の方はまだ(#^.^#)。開けるのを楽しみにしてるんだぁ〜♪

他にお煎餅屋さんで貰った坂東市のお土産パンフを見たら、他にも「将門蕎麦」とか「将門漬」とかもあるらしい。
今度行ったら、全部買うっ( ̄^ ̄)!<鼻息



<坂東市「富士見の馬場跡」〜山崎>

さてさて、赤ちゃんだった将門もおっきくなった(事にさせて貰おう:笑)。

将門を誕生時から扱ったのはドラマだけなので、これ原作にも無いシーンだけど(^^ゞ、「風と雲と虹と」では、まだ子供の将門が馬に乗ってパッパカ走って落馬して、お父さんの良将も内心ハラハラしながら(笑)、「そのぐらいの怪我が何だ」とか厳しく育てて、立派な若武者になっていくんだわ(^^)。

ここにはその将門とお馬サンに由来する史跡がある。つまり「馬場」である。

ここは2度目に居住した「石井(いわい)営所」の近くなので、実際にはその時に関係した伝承地と見るべきだろうが、その一方、豊田に対する石井はやや後退した地点という見方も出来なくはないので、意外と当初から、この辺りの馬場に関係を持っていたかもしれないよね(^^ゞ。

で、場所なんだけど……地図N←だいたいこの辺り(^^ゞ。
354号線からちょっと逸れて、こういう分岐点を左に進む。→
分岐点には庚申の石碑が立っている。

最初、その隣の公園っぽい敷地がそうかと思った(笑)。→
確かに小さな原っぱに、子供が遊ぶ動物チャンや飛行機チャンの乗り物(下にバネのついてる)が幾つかあって(笑)、何か事情があって、公園にしている感じだけは伝わった。

「あのペリカンの乗り物に跨って、おウマの稽古をしたんだねぇ(^_^;)」
「それで"鍛錬場”!(≧▽≦)」
「馬の調練じゃなくて、子供の遊戯だよねっ!(笑)」

むか〜し、よく史跡を探したあげく見付からなかったり、見付けたけど、ホントに子供の公園状態になってる場所なんかに行き着いた事がよくあって、ガッカリする気分を和らげたい余り、必ず、

「謙信が馬の稽古をしたドラエモン」とか、
「信玄が金山を掘る練習をした砂山」とか、
「氏康が風魔忍者に修行させた渡りロープ」とか、
「真田が草の者に訓練させた滑り台」とか、
「鎖鎌を考案するキッカケとなったブランコ

というギャグを飛ばしたものだが(笑)、今度もそれになってしまう予感がホンノリとして、実は1日目は帰ってしまった(爆)。

でも家に戻って時代劇専門の画像やら、坂東市のHPなどよ〜く見て、「いや、まだ行き着いてないだけだ」と結論。2日目にようやく見付けた(^_^A)。

これが「富士見の馬場」跡だぁ〜!
古い石碑(^^)

富士見の馬場は、将門が軍馬の調練をした馬場で、この地から霊峰富士の勇姿が眺められたのがこの名がついた。
市内の長須には、延喜式(えんぎしき)の長洲馬牧があって伊勢神宮に祭馬(まつりば)祓馬(はらいば)を納められた。
また、その頃豪族達が私牧を各地に持っていて、将門が石井営所に入ると、これら官牧、私牧を支配して駿馬(しゅんめ)を集め、この馬場で調練のほか馬市も開いたといわれている。(以上、当地の案内版より)

「富・士・見」まで読める
横からも一枚(^^)

もうね。何歩で通り過ぎるってぐらい小さな敷地(^^ゞ。でも到達点の写真出せなきゃカッコワリィ事になるトコだった〜!(笑)

坂東市の史跡は後日また出て来るが、感想を言うと……スゲェ近い( ̄∇ ̄;)!!

昔の人はもっとそうだろうが、現代人にとっても「県境」というのは精神的に遠く感じさせる物があるが、地図で見る感覚より実感として遥かに近く、やっぱ昔の国名というのは「感覚的に素直」という感じがした(将門のいた「下総」は千葉と茨城を跨った地域ッス(^^ゞ)。

というわけで坂東を去る
高崎岩井線(136号線)を通ってみる

次に目指すのは、さっきも書いた「豊田」の館跡なのだが、「富士見の馬場跡」からだと、庚申塔のあった分岐に戻り、20号線を北上して、24号線に右折して入るのが判りやすい。

が、坂東市のHPを見ると、いわゆる王城予定地の候補の一つとして「山崎」という場所が上がっている。(京の「山崎」に当てたという意味のようだ)
「いっちょ、その辺りを通ってみよう(^^)」と入った道が、地図O

これが結構良かったのだわ〜(笑)。いかにも「馬で駆け抜けた道」って感じで、雰囲気としてピッタリ!

薄暗がりに分け入ったり
ウォ〜! 馬で駆け抜けてる気分!

途中「馬立(地名)」ナントカ公園という所に出た時だけ、やや拓けた雰囲気になり↓、でもその後はエンエン森林道が続いた(^^)。→

後で時系列の都合上、また後で出ては来るが、これで取り合えずの所は坂東市は終り(^^)。
坂東市のHPには将門に関する史跡が詳しく載せてあって、とても助かった。



<常総市「将門公苑(豊田館跡)」>

お次の場所は地図P←だいたいこの辺り。「将門公苑」とか「豊田館跡」とか言われる場所。

大河ドラマでは、生誕地自体をハッキリ示したわけではないが、将門が生まれた頃から、将門が住まった、この豊田には館があったように描かれていた。

「将門記」からも、いわゆる「将門の乱」が起こる前までに、将門には京で右大臣・藤原忠平に仕えていた経歴がわかるが、官位を得た形跡は無く、帰国している。

その時期と重なるように父・良将が没している(これも諸説あって、910年代と言われるが、930年まで生きていたとも言われる)ので、土地の管理のために帰国したのではないかと見られている。
つまり京都に行ったものの、華々しい出世はせずに坂東に戻って来た。

いきなり戦をやって連勝する経過から、京でも既に武勇の名声があっただろう、とも言われるが、父・良将のように鎮守府将軍にでもなればアレだが、当時の開拓・開墾者は相当な苦労をしないで土地に根付く事はかなわないし、特にこの地域には水害が多いので、灌漑やら放牧やら農業やらに従事していたのではなかろうか(^^ゞ。

特にドラマでは、そうした新規開拓者(農民)の姿として将門を描いていたと思う(笑)。
そうした将門の青少年時代の舞台となるのが、この豊田の地である。

常総市に入り、石毛の方に進んでる
5月の水田風景が広がる(^^)

住宅地のど真ん中にあって、かなり判りにくいと思う(^^ゞ。
私らは持ってる地図に「将門公苑」と書いてあったから(でもかなり古い地図(^_^;))、その位置を携帯ナビに仕込んで進んだが、それでも現地が近付いてから、わりと探した覚えがある。

ただ、今度は駅からはまぁまぁ近いかな(^_^;)。常総線「石毛駅」が相当すると思う

ここが「将門公苑(パノラマ3枚ほぼ180度)

↑右の公苑の裏に道路があって、墳墓の敷地がある。「般舟山・法輪寺」が管理していると見られる。
左の通路から入ってみよう。↓

規模はとても小さい(^^ゞ。(パノラマ3枚ほぼ180度)

将門のレリーフ
拡大
「豊田館跡」石碑

この将門像(レリーフ)、大河ドラマ「風と雲と虹と」にも「現在の豊田館跡」として、取材画像が提示された時に、シッカリ画面に映し出されていた(^^ゞ。少なくても1976年より前に建てられたレリーフだろう。

←こっちは大河ドラマより後。 背面には石毛一帯の地図が↓

何かビカビカ光っちゃって、見えにくいけど(^_^;)、左のには「神兵降臨 火雷天神」の旗を掲げた騎馬の将門の姿と、「風と雲と虹と」の字が入っている。さらに、左には歌が書いてあって、

「よそにても風のたよりにわれぞ問う 枝はなれたる花のやどりを」

これは、ですね(^^ゞ、「将門記」ではないかと。
将門が承平・天慶の乱を起こしたトバッチリを受けて、捕らわれた貞盛の妻が兵達に衣服を脱がされ陵辱される下りがあって、将門は兵達に女性らへの乱暴を禁止してたんだけど、既に時遅しという場面がある。

将門は「貞盛の妻には罪はないから、本拠に返そう」と周囲に言われ、彼女ら(他に源扶の妻って人も居たみたい)に衣服を与えて、本心を聞こうと和歌を詠む。

それがこの歌で、「将門記」の作者が作った場合もあろうし、あるいは将門が詠んだと「伝わってる歌」(他に作者がいる)の可能性もあるわけだが、いずれにせよ、何しろ「将門が詠んだとされて残る唯一の和歌」じゃないかとは思う。

ここで将門が「女心を聞こうとして」ってのも、将門の歌に貞盛の妻が返し歌を詠んだりするのも、何とも意味深なんだけど(^_^;)、あまり深く想像せずに普通に考えれば、貞盛は敵方だけど、そこに捕虜を送り返そうというわけだから、何か将門軍の内部情報を漏洩される恐れとか、将門はそれまでに敵方から訴えを起こされたりしてるので、陵辱された事への恨みから、また公的機関に訴え出る恐れとか、そういう事なんじゃないかな〜と浅く想像しておこう(笑)。

この事件は、だいぶ後になってからの事で、しかもかなり物凄い場面ではあるんだけど、ここ「豊田館跡」は紛れもなく将門の本拠地であるから、何か将門にゆかりの詩を入れようとした結果、将門唯一のこの和歌を書き込む事になったのだ、と思っている(^^ゞ。

そして右の地図だが、この地は将門が敗れて、敵方の貞盛の領有となったので、貞盛の弟・繁盛の子(貞盛の養子)が領地を得て、その子孫から出た豊田氏が住し、やがてこの地を賜って、向石毛城を築いた辺りなのだ。

だから、ほぼ同じ地に将門と将門を討伐した家系の碑が建つ。

公苑の通路からちょっと逸れてみよう(パノラマ3枚ほぼ180度)

何やらお堂のような(^^ゞ?
群をなすタンポポ(^^)

ここも敷地の一郭なのか、建物の中にはたくさんのお供えが捧げられているのがガラス戸から見られた。

さて、この向石毛城にいた豊田氏については、後にまたゆかりの地を訪ねたので、その時に話を譲りたい(^^ゞ。

ここで言っておくのは、この石毛城もやがて1500年代に多賀谷氏(前回少し触れたけど)などの勢力に押され、最後の城主・播磨という人物が降参し、出家して、先ほども言った、この地を管理している「般舟山・法輪寺」を再建したという事。
先祖の菩提を弔うためだろう。こうしてこの地は住宅街の中にあり、狭いながらも残ったというわけだ。

このタンポポの敷地も、もしかしたらお寺の管轄なのかな?

以上、関連事項は、
2002年9月本文より
2005年3月<神田明神>
2005年10月<増尾城址公園(千葉県)>内
2005年11月<将門神社><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>内
2005年12月<初詣2「神田明神」>
2006年8月<泉「三夜堂」と「おせし様」>
2006年9月<東京・神田明神>
2007年1月<太田図書の墓・臼井妙見社・円応寺・ウナギ(^。^)>内
2007年5月<筑波山神社>内
2007年8月<神田明神「天野屋」>内・<神田明神と将門の首塚(芝崎道場)>
2007年9月<手賀沼周辺散策・古墳と川べりの風景>内<松ヶ崎城跡(柏市)>内
2007年11月<久留里城>内
2008年2月<「多賀城」政庁跡と城前地区>内以降

2008年6月〜「作品の広場」内「将門雑記(風と雲と虹と)」




今回はざっと「将門誕生〜青少年時代編」をお届けした(^^)。

次回は引き続き「将門ツアー@茨城」第二弾。
この「豊田館跡」の近辺から始まり、いよいよ「将門の乱」の前半「承平の乱」をやりたい。

すなわち「野本の戦い」「川曲の戦い」「小飼川の渡しの戦い」、そして葦津江あたりの敗戦劇の後、行ければ「服織営所の戦い」あたりまで行きたい!(かなり希望的観測:爆)

2008年08月19日
 
     




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