<2009年・城主のたわごと3月>



2008年9月「福島〜山形ツアー」第3弾(^^)。

2日目は山形に出てから北上、3日目は羽黒山を♪





     
  福島〜山形レポ第三弾(^^)。今、山形県にいる。
2日目の午後は、山寺から山形へ。北上して松山温泉で一泊。
3日目は清川を経由して、羽黒山に参詣。



<山寺から山形へ(北畠神社)>

さてさて前回までお届けした「山寺(立石寺)」の後は、山形城に向かおう(^^)。
地図A←右上が山寺(立石寺)・左下に山形城という位置関係。

まずは西に向かう。途中の山並↓
途中に「北畠神社」→

詳しい場所は→地図B
地図の通り、この神社は「山形市」から僅かに逸れて、「天童市」に入っている(^^ゞ。
このあたりの朝夕の食事には、よく天童蕎麦が入ってた(笑)。また温泉があるようで、行ってみたい場所である。

さて、神社の創建は大正7年(1918)に「竣工」とある。「再建」といった由来は見当たらないので、大正以後に新しく建てられた神社だと思う。
大正10年(1921)には、秩父宮(淳宮)・高松宮(光宮)も山寺に訪れ、この神社に車を駐めて昔時を偲ばれたという事なので、神社が出来ていたのだろう(^^)。

創立に関わった面々の中には、「元山形県知事・馬渕鋭太郎」が見え、前回の山寺でも、皇太子時代の大正天皇の行啓記念に碑を立てた折の選文者として見える。
東宮(後の大正天皇)の行啓は、遡る明治41年(1908)だが、東宮の行啓をキッカケに、山形の歴史と文化復興の機運が盛り上がったのかな(^^ゞ。

神社の由来とされる「北畠」は、祭神として祀られる「北畠親房命・北畠顕信命・猿田彦神・阿須波神」の通りで(^^ゞ、この地が、「正平6年(1351)11月、南朝の北畠顕信が、北朝の陸奥探題・吉良貞家貞経父子と会戦し、敗走せしめた処」という点をもって建立の動機としている。

ちなみに現地では、北畠顕信を「南朝の忠臣」、吉良父子を「北朝の賊将」と書いてある(笑)。
建立は元財団法人・山形県教育会。建立当時の考証には、史家の伊佐早謙氏があたり、顕信卿忠誠顕彰会の後援とある。

他にも昭和17年(1942)には、久我通顕・岩倉具栄といった人が訪れたようだ。これは時代的にも戦中だが、戦後の昭和38年(1963)になると、「交通安全祈願所」として、猿田彦神・阿須波神など数柱を合祀して存続している。
他に、「新霞稲荷神社」(祭神・稲倉魂神)。

猿田彦神は道案内の神様として知られているが、今回行った場所では、道案内の神と、食べ物や稲の神(稲荷)がセットで祀られてるのによく出会った気がする(^^ゞ。

この「北畠神社」を過ぎてスグ左折、南下して山形市の中心街・山形に向かう。再び地図A

13号線(だと思う(^^ゞ)
立合川(じゃないかな(^^ゞ)を渡る

背景がだいぶ暗いが、これは日暮れのせいではなく山寺にいる頃から雨が降ってたからね(^^ゞ。まだ午後3時ぐらいだったと思う。



<山形城(霞城公園)>

↑入ったのは裏手の駐車場からなんだが(笑)、一応まず正門の写真を(^^ゞ。

「山形城」。手前に線路が走っている(パノラマ4枚・180度以上)

↑この線路は「山形新幹線」と「奥羽本線」で、この左(南)にちょっと行けば「山形駅」(^^)。
私らは車なんで、右の森の奥の駐車場から入ったわけだが、↑ここから入ると……、

左にさらに門がある↓。
「多門櫓」を配する、いわゆる「枡形」と呼ばれる二重の門構えだね(^^ゞ。
ここは城址公園で、今ある建物は全て再建。今は多分この「二の丸・東大手門」だけが完成してるのだと思う。

こちらは完成予定図だろう→
左が南・右が北。中央は復原中で、いま中央下「二の丸東大手門」にいる。次は右下の駐車場から入ってみよう。

←これが駐車場の茂みから見た東大手門の回廊。
平成3年(1991)竣工との事だが、確かに私が前にここを訪れたのは20年以上前なので、こうした城郭風の建物を見た覚えはない(^^ゞ。

山形城は別名「霞城公園」とも言い、市街地のほぼ中央に位置。約35.9haの面積を有する。

延文元年(1356)斯波兼頼の創建と伝えられる。

斯波兼頼(修理大夫)は、その父の代から南北朝の動乱期の宗家・足利氏を支え、奥州探題として東北の押さえを勤めた。つまりさっきの北畠氏とは敵対関係だったわけね(^^ゞ。
そして兼頼自身も羽州探題となり、その後の最上氏の祖となった。源氏系図

前回「山寺(立石寺)」でも少し触れたが、この斯波氏の5代・頼宗の娘・光姫の伝承がある。
光姫が19歳の時、父・頼宗と夫・頼氏の元を去り、最上33観音を巡礼の後、山寺の麓の庄司小太郎の家にて、若松丸という男子を生んだ。

姫はそのまま10年もそこに住み、若松丸は隣村・高野の石堂権三郎の里子として育つ内に9歳となった。
山形城では後継者が居なかったので、若松丸のことを聞いて迎えをやり、これが6代・義春となったが、母の光姫は山形の鴻池に移って、61歳で亡くなった、という物である。

これは「最上33観音巡礼初」という書物に残ってる話だそうで、確かに系図としても、6代に「義春」という人物が見えるが、当の山寺には「これほどの珍事でありながら、当寺の記録には全く残ってない」という事なので、「作り話だろう」と締め括られていた(笑)。
なので山寺では書かず、でも面白い話だったので、こちらに載せたわけ(^^ゞ。

この逸話で「義春」が、観音さまの子とか山寺の霊威による子という事なのか、光姫の不義の子という事なのか、よく判らない所が面白いと思った(笑)。

その後、この城は文禄年間(1592〜1595)最上義光に拡張され、鳥居忠政の時代(1622〜1628)に、ほぼ現在の形にまで整えられた。

駐車場から入ると、広い芝生に歩道が設けられ、中央→に誘われる(パノラマ2枚)

↑この建物のもうちょっと右にこの「最上義光公・勇戦の像」がある。→

さっき話した「義春」の後も最上氏は続いて、戦国時代を迎えると、群雄各地に割拠して奥羽地方も争乱が絶えず、山形最上氏も隣邦の侵略圧迫により衰運に傾き、その後一世紀は存立も疑われた。
11代・最上義光は、こうした逆境の中、天文15年(1546)山形城に生まれ、山形の再興と隆盛を期して外敵の侵犯を排除し、最上村山地方を平定してその統一を実現した。

過酷な状況の中での統一には困難がつきまとい(詳しくは「最上義光@戦国武将一覧」を(^^ゞ)、城跡の敷地には、天正12年(1584)に谷地城主・白鳥(十郎)長久を斬殺し、首をのせたと伝えられる石鉢がある。

慶長5年(1600)の秋、関ヶ原合戦の折、徳川方に属した山形に、会津上杉氏の謀将・直江(山城守)兼続(米沢城主)は、2万3千余の大軍を率いて、怒涛の如く来襲し、総勢3万もの兵が入り乱れる激戦となり、10日余りにも及ぶ泥沼の戦いとなった。
しかし落城の危機に直面した義光は自ら指揮し、陣頭に立って勇戦敢闘。敵を撃退してよく山形城を死守した。

この「慶長出羽合戦」は、戦いの主力抗戦舞台となった長谷堂城の戦いが有名。長谷堂城の頂からは、この山形城址や直江兼続が本陣を置いた菅沢山が一望できるそうだ(^^ゞ。
またこの戦いの折、この城が霞で隠れたことが、この山形城を別名「霞城」と呼ばれる所以だとも言う。

この「最上義光公・勇戦の像」は、その当時、決戦場の冨神山にむかって進撃しようとする義光の英姿をイメージし、鎧兜は時代考証にとらわれず表現されている。

右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻まれ、銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどっている。

この功により、義光は庄内三郡、秋田由利郡を与えられ、「出羽百万石」の一大領国をして東北第一の大名となった。

……ちなみに、この大功は、関ヶ原における西軍敗退によるものではあるが(^^ゞ、元の最上氏は20〜30万石、これも義光一代によると言える上に、関ヶ原以降は倍つまり50〜60万石を確保した。
「百万石」というのは実質的な石高だろうと思う(東北では実質、表記される量の倍はあったと言われるから(^^ゞ)。

この山形城のみならず、山形県のほぼ全体に波及する点なので、その後の事を先に言ってしまうと、最上氏は江戸期の初期には取り潰しの憂き目に遭い、その後の山形は幕末までに夥しい数の藩主が入れ替わる。
そのたびに藩領は減封の憂き目に遭い、この城も末期には、城郭の維持が困難となった程である。

会津松平氏の会津や、関ヶ原合戦によって減封されたとは言っても存続した上杉氏の米沢、これより向かう、酒井氏の庄内などに比べ、山形県の中央に位置する山形は、随分な目にあったという事になる。

関ヶ原の後、いきなり倍する領国を手にした事も、それだけの大領を細々と分けたり、入れ替わったりで一定の領主の定着度が低かったなど、あまりにも極端から極端に時代の色分けがされたのが、この山形なのである。
そう考えると、戦国期に統一をなし遂げた義光の功績は、土地にとって唯一と言っていいほど、大きな歴史的遺産だと思う。

義光は、府城として大規模の山形城を構築し、城下都市建設に力を注ぎ、まず城外に商業街を設定しまた工業職人街を特設して、諸役務を免除するなど人口の集中と民生の安定をはかった。
さらに最上川を改修して舟運の便を開き灌漑排水路を開拓して新田造成を促進する等、産業の振興、物資流通の基礎を築き、神社、仏寺を崇拝保護して民衆教化に寄与すると共に、建築、美術、文学など各方面にわたって中央の文物を導入し、草深い出羽の国に文化の華を咲かせた。
のみならず自ら深く連歌をたしなみ、文の面においても第一級の才能を示した事など顕彰されていた。

慶長19年(1614)正月18日、68歳をもって山形城に没し、殉死の家臣と共に市内光禅寺に葬られ、また紀州高野山に壮大な五輪供養塔が建てられた。

縮小の一途を辿った山形城の最後の藩主は水野氏であるが、山寺には頂上に最上氏の墓がある他、山腹の途中に、この水野氏のものか「水野家の墓」があった覚えがある。

大正13年(1924)、生前の大きな功績が認められ、最上義光に正四位を追贈され、城の跡地は昭和23年(1948)に国の払い下げを受け、公園として整備を行い続けている。

公園内には他に、日露戦争、大正期の大陸防衛、満州事変、ソ満国境警備、ノモンハン事件出動、大東亜戦争における沖縄などの防戦に勤めた「歩兵第32聯隊」の顕彰碑もある。

義光像からさっきの枡形門を見る
豪壮な多門櫓を潜ると(^^ゞ

最初に見た「東大手門」に戻る(パノラマ3枚)

昭和59年(1984)、「山形城跡」として山形市の象徴的な公園とするため「霞城公園整備計画」が策定され、改めて史実に基いた整備を進める事となった。
私が前に来たのはその頃だったと思う(^^ゞ。ガラ〜ンとした平地の広場で石垣だけあったような……。

さらに昭和61年(1987)5月、二の丸堀から内側の地域が、近世初期の面影をとどめている全国有数規模の近世城郭として国の史跡に指定され、昭和62年(1988)には、日本の都市公園100選の1つに選ばれた。

正門である、この「二の丸・東大手門」は、幕末の城絵図や明治時代初期の写真等を参考に、工期45ヶ月工費11億円余をかけて、日本古来の建築様式で、平成3年(1991)に竣工、今はこのように立派に復原されていた。

当時の物としては石垣が残っており、これは市街地を流れる馬見ヶ崎川の玉石(安山岩)を用い、割肌を表面に見せる野石積みで、日本でも類を見ない優美で堅固な石垣だと書かれている。

先ほどの見取り図では、今の所、中央の「本丸一文字門」の復原がなれば、そこからこの「二の丸・東大手門」までが城の再建地の範囲と思われる。
そのさらに周囲には、既に体育館・武道館・弓道場・野球やソフトボールなどの運動場、音楽堂・山形市郷土館・県立博物館などの文化施設が取り巻いている。



<松山温泉(2日目夜〜3日目朝)>

山形からは一路、羽黒山方面にダッシュ! ε==(/^o^)/

かなりの距離なので、4段階で表示(笑)。地図C←今、下の「山形」にいる。まず「山形中央」から高速(東北中央道)に乗って北上、終点「東根」まで行く。
地図D←かなり縮小(笑)。次に右下の「東根」から13号線(右端)で北上し、47号線でガーッと日本海方面(西)に向かうと、途中に「羽黒山」(^^ゞ。

悪天候もあるが、この移動時間帯は既にかなり夕方(^^ゞ。

地図E←元サイズに戻す(笑)。今度は下に「羽黒山」。その上に「最上川」が流れている。
地図F←さらに拡大。「最上川」をさらに越して北上した地点に「松山温泉」。

松山温泉に到着(^O^)。
すぐに夕ご飯♪ 日本海が近いからかな、山海の珍味がタップリだった!(スゴイ量だった:笑)

夕飯の後は温泉(^^)。まずは室内温泉から(パノラマ2枚)

そして……ワクワク露天風呂だよっ(^O^)(パノラマ3枚・ほぼ180度)

婦人病や関節・怪我や皮膚病など一般的な温泉の効能の他、糖尿・消化器などに効くそうだ。

前夜の山寺が温泉じゃなかったので、亭主が納得しないと思って、2日目のはかなり探して温泉宿を取ったんだけど、この露天は夜風が心地よく、朝になると特に良かったな〜(^^ゞ。
朝は、他のお客サンが居たのと急いでたので、写真は撮れなかったが、朝霧の中から周囲の山や最上川が眼下に望めて、素晴らしかった(^^)。

風呂場から撮れなかった分、部屋から(パノラマ4枚・180度以上)

ちょうどこの辺りに↑ウッスラと見えるのが最上川(^^)。宿は「松山温泉 観音湯」と言い、パンフには「庄内の函館山とも言われ、庄内平野と日本海に沈む夕陽が見られるのはこの宿だけ」と書かれてた(笑)。もう一泊して夕陽と日本海も見てみたかった♪

こちらは仏教国ビルマから来られた仏像サン→

宿の庭に小さなお堂が建てられ、扉を開けて納められている。この地に来たのは昭和63年(1988)で、「三菱商事の協力」とあったので、海外に勤務された方の何らかのツテと思われるが(^^ゞ、製作年が約350年前という事で、日本では江戸初期にあたる、かなり古い仏像で、現地では一族繁栄の仏陀として信仰されたという。ここでは温泉地にある事からだろう、長寿と健康を祈願する観音サマとして祀られ、自由に拝観・祈願ができる。



<最上川(松山温泉〜清川)>

さてさて、3日目スタートである(^^)。
この松山温泉は今回の旅程で最北端に当たる。これより先は、ジワジワ〜ッと南下しながらアチコチ廻るのだっ。まずは最上川に注目〜。

最上川は北西に向かい、日本海に注いでいるが、流れを遡り、最上川を東南方向に向かう。
その途中で一度、最上川を渡る箇所がある。

←「清川橋」である。地図G

橋から見える最上川と霧に煙る周囲の山々

渡り切ったら45号線を左折〜
47号線から見る「清川橋」

う〜ん、45号線を左折したらこうは見えないハズで、実は右折して撮った↑(爆)。
「最上川を見たいよね〜(^^)」とか言って、47号線を行ったり来たりしているワケ(笑)。

前日の雨で水量も豊富だし、なんつっても急流ぶりで有名な最上川、「一度近くで見てみたいよね〜(^^)」と、いかにも観光客っぽい事を言ってるわけだ(後から思えば命取り:爆)。

47号線の先の山にはモォモォと霧が煙り……

車道の左には最上川!(≧▽≦)
五月雨を〜集めて早し最上川ぁ〜(^O^)

9月だったけど、ゴォゴォいっちゃって、スゴイ急な濁流だった〜(笑)。こんなトコに住んでみたいわ!
「五月雨を」を芭蕉が最上川のどこで詠んだのかは知らないが、この47号線を挟んでスグの清川には「詠んで上陸したのは清川(関所跡)」と、松尾芭蕉の句碑(昭和31年建立)が建てられてるようだ(^^ゞ。



<清河八郎神社・記念館・清川口(戊辰の役)古戦場>

47号線をわりとスグ、最上川から分流する「立矢(立谷)沢川」の手前で右折すると、45号線に入るが、45号線を行く前に、ちょっとこの辺に寄り道して行く(^^ゞ。地図H

清河八郎神社」と鳥居の脇の「清河八郎の銅像」

清河八郎は、天保元年(1830)に出羽庄内の清川村に、斎藤冶兵衛豪寿(ひでとし)の長男として生まれた(吉田松陰と同い年)。幼名は元司。
弘化4年(1847)、18才で江戸に遊学。経学を東條一堂塾・安積(あさか)艮斎(ごんさい)塾・湯島の聖堂などに学び、千葉周作の玄武館にて北辰一刀流の兵法免許皆伝を得た。

兵学や論学に関する著書や詩文も多く残され、書は中国の顔真卿を倣ったと言われる。
安政元年(1854)、江戸神田三河町に開いた「清河塾」には、「文武指南所」の看板を掲げ、江戸の中でも、一人で学問と剣道を教授する塾は清河塾以外になかったという。

安政〜文久(1854〜1863)年間、国外は欧米のアジア侵略、国内は安政の大獄、桜田門の変など騒然とする中、水戸・京都・九州を飛び回って憂国の同志を結んだ。

文久元年(1861)、京の田中河内介宅から肥後の松村大成宅により、薩摩の島津を動かすため出発する平野国臣に饌した詩、文久2年(1862)、大阪の薩摩屋敷から郷里の父にあてた詩、愛妻・蓮女が獄死したのを潜行中の仙台で知り、追討を詠んだ詩などがある。

文久3年(1863)2月23日、34才の時、浪士組本部(後にこれを母体に、会津預かり京の新選組・庄内預かり江戸の新徴組が組織)である京都壬生・新徳寺に、浪士234名を召集し、尊皇攘夷の大義を説いたが、同年4月13日、麻布一之橋で幕府刺客に暗殺された。

明治元年(1868)、維新の志士を祀る京都の官祭霊山招魂社に祀られ、明治41年(1908)、正四位を死後追贈され、昭和8年(1933)には、全国崇敬者により「清河神社」を創立、郷社に列せられ神饌幣帛料供進に指定され、学問の神、身体堅固の神として、朝野の尊信を亨けて来た。銅像は鶴岡市出身の彫刻家、小林誠義が製作。

明治維新は、主に薩摩・長州・土佐の志士に推進されたが、東北の一僻地に生れ、多く雄藩の志士に互して、維新に向けて主導的活躍をした清河を、 「近世日本国民史」の著者・徳富蘇峯は「維新回天偉業の魁(さきがけ)」と称した。

神社の手前(向かって)右には「清河八郎記念館

昭和37年(1922)、清河神社において、没後百年・記念顕彰事業が多彩に行なわれて記念館も建てられ、遺品を保管・展示している。山形県ならびに町指定文化財に指定されている。

この界隈には「藤原秀衡の子孫」と伝えられる斎藤家の大庄屋跡(建物は歴史民俗資料館に一部移築・保存)や、義経と弁慶が旅の一夜を明かしたという伝承の「御諸皇子神社」など、奥州藤原氏や義経伝説の痕跡も多い。

この斎藤家だろう、清河八郎の後嗣として記念館を建て、清河八郎の遺品や維新時代の資料収集につとめ、現在百数十点が保管される中、県文化財が50点、町指定有形文化財は38点。

清河八郎の著書や詩文、筆書、屏風、書簡(相手は、田中河内介・藤本鉄石・平野国臣・真木保臣・山岡鉄舟・高橋泥舟・間崎哲馬など)、少年〜青年時代の日記が6冊、26歳の時に母への孝養のため、伊勢神宮・奈良・京都・大阪・厳島・天橋立・江戸・日光と半年にわたって廻った日記「西遊草」8冊もある。

最上川の手前、民家の並びには「清河八郎・生家跡」の「楽水楼跡」があり、八郎の父・雷山が建てた書斎で、迎賓館でもあったという。
この神社を挟み、最上川とほぼ平行に流れる北楯大堰のさらに北には「清河八郎の墓」もある(菩提寺は歓喜寺)。墓表は山岡鉄舟の書。

近年の幕末ドラマでは、大河ドラマ「新選組!」に出ていたが、ドラマの清河はだいぶクセのある人物に思えたが、それは清河の誘いを断わり、京に残留して佐幕派となった近藤勇らが主役だからだろう、と思っていた。

が、記念館に入って彼の生涯を辿ると、殺人犯になって逃げ回る中、わりと大言壮語しまくってて、そんなに大きく違ってない事に驚いた(笑)。

清河神社の横には
戊辰戦争の石碑が立ち並ぶ

現地の案内版だけでは背景が掴めないので、先に補足すると(^^ゞ、清河の死から5年後の慶応4年(1868)、既に維新政府の母体が出来ちゃってて、だけど会津は朝敵だから討伐ー!とかいう事になって、庄内藩も前年の暮れに江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしたので、同じくアンタらも朝敵ー!とかいう事になっていた。

会津に関しては、米沢や仙台が政府軍との間に入って「まぁまぁ( ^^) _旦~~」とかやってた(でも後でムカついて会津側に味方し、奥羽越列藩同盟となった)頃、ここ庄内ではその後に先駆けて、既にドンパチ沙汰が始まっていた。
それが慶応4年(1868)4月からの「庄内戊辰戦争」であり、その初戦が、ここ「清川口」で勃発していた。

「清川」は広い地域にあてられる地名だが、細かく言えば、今いる神社のある場所は「御殿林」と書かれており、ここよりちょっと外れに「清川村」があったという事になる(^^ゞ。


最上川に沿ってる道路が47号線。
それとほぼ直角に、立谷沢川(立矢沢川)に沿って、手前を走る道路が45号線である。

で、こっからが案内版の記述となるだっ。

「史跡 御殿林
慶応4年(1868)総督府(奥羽鎮撫総督・九条道孝)は、荘内追討を布令した。
副総督沢為量・参謀大山格之助(薩)のひきいる政府軍は、4月14日岩沼を発し、笹谷峠−山形−天童−尾花沢−新庄−本合海を経て、24日未明、土湯に上陸し、早朝、清川「腹巻岩」を占拠した。
ただちに政府軍は、「腹巻岩」山上より「清川村」に対し、攻撃を開始した。

これに対し荘内軍は、かねてからこの事あるを察知し布陣しており、松平甚三郎を総大将に、水野弥兵衛を士大将として、「御殿林」を中心に、ただちに応戦した。
しかし、政府軍の急襲により苦戦となり、婦女子は「狩川」に避難した」

←何となく位置的に、鳥居の裏から見える角度のこの山が「腹巻岩」かな、と思ったけど、どうだろ。

続きを行こう。

「が、午後には援軍が到着し、奇襲戦法なども功を奏し、戦況は逆転した。
午後3時頃、荘内軍は「腹巻岩」の要地を奪還し、政府軍を撃退した。激戦の結果、荘内軍戦死者13名、負傷者18名、政府軍戦死者12名、負傷者50名余といわれる。

明治26年(1893)8月9日俳人正岡子規は清川に立ち寄り、御殿林が戊辰戦争の戦跡と聞いて次の句を詠む。
 蜩(ひぐらし)の二十五年も昔かな」(案内版記述・以上)

庄内藩もモチロン後で降伏するんだが、戦争にはこんな具合に勝ってたワケね(^^ゞ。
別の場所で勝敗が決まって、勝ち組・負け組が分かれたっつートコは東北・関ヶ原に似てるかな(^_^;)。。



<羽黒山・山頂>

他に清川にも猿田彦神と稲荷を祀った神社が、それぞれあった。偶然に過ぎないだろうが、個人的には、この「道案内」というのが、この辺りの信仰に多いなって思えた。羽黒に着いてから述べよう(^^ゞ。

庄内の田んぼは雨天の中、みずみずしい金色を放って豪華だった! しばらく45号線沿いの風景をお届けしながら、羽黒に向かう。

立矢沢川は最上川とは垂直に、はじめは南西方向に、やがて真っ直ぐ南に流れていく。
この立矢沢川の手前から入った45号線は、立谷沢川に沿って続いている。地図I

相変わらず周囲の山々は、霧に取り巻かれて美しい

途中から立矢沢川と別れて、西に進むと羽黒の山がある。羽黒山は、立矢沢川とその西の京田川に挟まれた地点にある↓。地図J

45号線から右折して羽黒山道に入ると、豊かな田園風景から一変、鬱蒼とした森林道に及ぶ。

羽黒山に続く森林道も、清めるように雨に濡れていた

羽黒山と言えば、天下に名高い出羽三山の一山として、古くから修験のメッカのようにイメージされているが、標高414mと、実はそれほど高くはない(^^ゞ。
この先、羽黒山に入った所にある「出羽三山歴史博物館」で見た立体パノラマ地図で、むしろ羽黒山の低さに驚いたぐらいだ(笑)。

地図K←対して、「月山」は標高1984mと三山では一番高く、この月山を超え、あらゆる修業の道を乗り越えた後、最終的に「湯殿山」(南西・標高1504m)に向かう。

松尾芭蕉は羽黒山について、「延喜式に、羽州里山の神社とあり、書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは鳥の毛羽をこの国の貢に献ると風土記にはべるとやらん」と書いている。

続けて記された「鳥の羽毛を貢に献る」については、後で触れよう(^^ゞ。
「慧日寺」でも述べた、死者の霊が里山と高山を行き来するという概念でいくと、芭蕉の言う「羽州里山の神社」という表現が、「羽山」(端の山=里山)に相当する事になる。
また、「羽山」で言うなら(もうちょっと離れた)「葉山」かもしれないが、これについても追い追い触れよう(^^ゞ。

山寺でもそうだったが、出羽三山も先祖の霊場として信仰を集めて来た。
つまり月山は「死者の世界」であり、湯殿山は死を潜り抜けた後に約束される「再生の場」であり、それら出羽三山に「入門」する地が、この羽黒山である。

ならば羽黒山はまだ俗世との接点で、死者の霊で言えば一番最初に来る場所、つまり「入口」という事になる。だからそんなに高くない、という事になる。

真ん中の道からやって来た(パノラマ5枚・180度以上)

正面を見ると、二方向に入り口がある(パノラマ4枚・180度以上)

鬱蒼とした高い木立の合間に、濃い霧が立ち込めていて、風景と言い、冷え冷えとした大気の香りと言い、いかにも荘厳として神秘的な佇まいだった。

入口に配されていた案内図

↑遠い月山や湯殿山が縮められて近く書かれてる点はご愛敬で(^^ゞ。
左の全体が羽黒山で、今、中腹の「現在地」(赤字)にいる。本来は左端の参道をエンエン登って、途中に国宝「五重塔」など見学しながら行くわけだが、観光客のために今では便利な車道が整備されているために、スイスイと行けている(笑)。

正面・二方向の内、右の参道から入る。↓
背の高い木立の参道を進む。→

こちらの入口は、駐車場から入りやすいのでこう行くが、正式な参拝ルートの順路から見ると、逆から入ってる(^_^;)。歴史の流れから見ても、こっちから入るのは逆だな〜と思うんだが、事情を知る上では、むしろこっちからの方がわかりやすい気がしたので、敢えて行った順に提示する。

羽黒山は明治の神仏分離の時、かなり強い徹底抗戦の姿勢を貫いたという。
それゆえ返って当時の政府からの報復も厳しく、徹底的な弾圧を受けた。別当をはじめ山内33寺院は悉く破壊し尽くされ、それらの収蔵された夥しい数の仏像が強奪された。

さらに僧侶は神道に改宗させられ、生活の手立てを失った衆徒たちは、本尊を手放す窮状に追いやられたため、仏教の足跡ごと国内外に散乱されて、殆ど残っていない。。
山寺の宿で「神仏分離の時、山寺は寺に、羽黒は神社に分かれた」と聞いたが、地元を問わず全国有数の信者達は、未だに寺に戻る事を強く願っているという。

羽黒山から失われた仏像は数千はあろうと言われるが、平安8、鎌倉72、室町50、桃山23、江戸70、他の250像が戻り、これを蒐集し寄進した佐藤氏の名から、今では「佐藤コレクション」として、この博物館に所蔵されている。

←「出羽三山歴史博物館」
主な所蔵文化財は以下。

重要文化財
 銅鏡(羽黒山御手洗出土・190面)
 銅燈籠竿(文和元年在銘)
重要美術品
 太刀(銘月山)
県指定文化財
 鉄擬宝珠(文禄2年在銘 直江兼続・寄進)
 銅狛犬(慶長18年在銘 最上義光・寄進)
 天宥・追討句(芭蕉筆)
 芭蕉・手簡(図司左吉・宛)
 木像阿弥陀如来立像
 木像毘沙門天立像 二躰
市指定文化財
 後奈良天皇・宸翰(和歌)
 尊圓法親王・染筆(三十六人歌合)
 俊仁親王・染筆(和歌)
 一品公猷法親王・筆(額)
 承眞法親王・染筆(書)
 直江山城守(直江兼続)公・祈願状
市指定文化財
 羽黒山歴代別当手跡
 羽黒山頂出土・甕・経筒・経石・仏像・古銭等
 月山山頂出土・経石
 羽黒山総絵図(寛政三年作成)
川村コレクション
 中国古鏡 303面
佐藤コレクション
 仏像 243躰
その他、指定文化財多数を収蔵し、随時展示替え。
・開館期間 4月下旬〜11月下旬
・開館時間 午前8:30〜午後4:20(受付4:00まで)
・休館日 木曜日 但し7月、8月無休
・拝観料 大人200円 高校大学150円 小中学100円

仏像などの造詣や仏教色の強い遺産は、宗教的な経過を知る上で重要だったはずだから、これらが散逸した今、あまり確かな事は言えない気もするが(^_^;)、個人の努力で250体近く戻っただけでも、大いに感謝すべきであり、これより先は想像を逞しくして進もう(笑)。

博物館の先は鬱蒼たる木立と
さらに深まる白霧の異境
←ウッスラと浮かぶのが、ようやく出会う羽黒の鳥居。今回の旅行で何と言っても思い出深いのは、この羽黒の深い霧だ。

羽黒が神社にあらず、修験寺である事は以上の殉難の事実を見ても明らかだが、その仏教美術に影響したのは、まずは鎌倉仏教ではないかと思われる。

また羽黒と言えば、「山伏」をイメージしない人は居ないだろう(^^ゞ。
博物館では上述の文化財も勿論だが、精進料理をはじめ、山伏の宗教行事・衣装・持ち物・法螺貝などが、ふんだんに展示されていて実に興味深かった♪

こうした山霧の中にも、遠くから微かな法螺貝の音が聞こえて来て、いかにも幽玄として、かつ生きた修験の山に居る実感があった。

山伏は修行僧である一方、「僧兵」と見れば、その勢力がいかほどだったのか、どれぐらいまで時代を遡れるのかに興味が湧くが、出羽三山は史上として古くは延喜式に現われるものの、その勢力が具体的に注目されるのは南北朝以降という感じがする。

出羽三山・社務所の年表によると、まず、

593年、能除上人が開山(羽黒・月山)
605年、     〃    (湯殿)
712年、出羽柵を設置(これより出羽国)
721年、行基おとずれる(羽黒)
806年、空海おとずれる(湯殿)

という風になっている(^^ゞ。宗教的な社伝であるから史実との切り分けは難しいが、湯殿山はいつからか確かに真言宗ではあったようだから、「空海」という事になるのだろう。山形県には空海の高弟・真済の伝承も多いらしい。

実はこの湯殿山と真言宗については、イキナリ時代は飛ぶが(笑)、先に江戸時代に行かせて貰う(^_^;)。

実は羽黒山は、その湯殿山との間に、江戸初期の1639年、祭祀権を巡って争いが起こっている。

紛争は、羽黒山50世、別当・天宥法印の時代。
天宥はこの羽黒山でも多くの崇敬を集める中興の祖であり、鳥居を潜ってスグ、まずはこの「天宥社」に出会う。→
天宥の時代は戦国争乱の影響で山も衰微し、又それぞれが独立の様相を呈したため、なかなか威令に従わなかった。

天宥は25才で羽黒山別当職に就き、殆ど江戸幕府お抱えの、アノ「黒衣の宰相・天海(江戸・上野寛永寺の僧正)」に師事して宗政を匡し、檀那場、霞場の布教制度を確立し、一山の改革を図り、参道に石燈を敷き、植林を奨励し田畑を興し、祓川の懸崖に瀧を落し、山内堂塔の造替移築を計るなど、お山の威厳を整え、絵画、彫刻、造園の術にも非凡な才能を発揮し、今日に至る出羽三山の神威発揚に大いに貢献した。

湯殿山とは、どういう紛争だったか、また山同志の紛争と関連するかは知らないが、天海という人は(ご存知の人も多かろうが)天台宗(^_^;)、天宥はそれまでの真言宗から天台宗に改宗している。だから羽黒・月山は天台宗だ。

だいたいさっきの年表を見ても、湯殿については「空海が訪れた」という806年の後は、エンエンと羽黒山の歴史のみが続き、この天宥の時代になって、イキナリ「争論」として湯殿の名が現われる(^_^;)。

そもそも「出羽三山」という呼称は、先ほども少し触れた「葉山」が以前には入っていて、「湯殿」が組み込まれたのは江戸期から、という説もちょくちょく散見するので、或いはそういう事情かもしれない(^^ゞ。

いずれにせよ、湯殿山は未だに真言宗である。
また近年までは建物のない純粋な修験場で、古来から「湯殿の御神体について語る事はタブー」とか、「語る人がいれば聞くな、聞く人がいれば語るな」などと秘事とされたようで、あまり文献的には伝わってないのかもしれない(^^ゞ。

天宥の名は、周辺の寺社の建立や庭の造成などにも多く見受けるが、晩年は反対派の讒に遭い、新島(東京都)に配流となったまま82歳で亡くなった。明治時代、神として祀られる事となり、昭和63年(1988)に天宥の墓地のあった新島から、手前の燈篭が奉納されて、平成4年(1992)には、この社殿が、開山1400年記念事業として造営された。

松尾芭蕉の像と句碑
蜂子皇子の墓(案内)

松尾芭蕉は、天宥の死の15年後、つまりまだその悲しみの色合いが濃かった元禄2年(1689)に、この羽黒山を訪れている。
天宥の遺徳を偲んで、その業績を並々ならず称えた追悼文を寄せ、その末尾に、
「無き玉や羽黒にかへす法の月」と詠んだ。

他にも「奥の細道」には羽黒の本坊にて、
「ありがたや雪をかをらす南谷」

さらに月山・湯殿山を巡った記録が記されるが、やはり山中の秘事については、「惣じて、この山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず」と記述を残していない。門人・曾良の句には、
「涼しさやほの三日月の羽黒山」
「雲の峰いくつ崩れて月の山」
「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」
「湯殿山銭ふむ道の泪かな」

「蜂子皇子の墓」とあるのは石碑(案内表示)のようだ。本物の墓(御陵)は宮内庁の所管で、さっきの「出羽三山歴史博物館」のそばの、ちょっと奥まった森にあるみたい(^^ゞ。
蜂子皇子については「蜂子神社」に達してから述べよう。

この「天宥社」「芭蕉像と句碑」と並んだ一帯には……、

末社が八社祀られている。
一段高い広場にズラ〜ッと(^^)。

出羽三山は元来、自然崇拝と山岳信仰の古神道から発したもので、明治維新までは信仰区域も、当時の33ヶ国総鎮護として広く朝野の崇拝を集めた。

三山には101の末社があり、ここには「八坂神社」「思兼神社」「白山神社」「大山祗神社」「稲荷神社」「建角身神社」「大雷神社」が並ぶ。

この中の「建角身(たけつぬみ)神社」にだけ、お堂の前の階段に、ドドド〜!と履物が奉納されていた(^O^)。
元は「行者堂」と言って、役行者(役小角)を祀っていた。

手前から二番目が「建角身神社」。階段に履物が並ぶ(パノラマ2枚)

又この「建角身(たけつぬみ)神」は、かの神武天皇の東征の折、道案内をつとめた「八咫烏」の事だが、修験であるから、熊野がらみの神話を基礎にした由緒でも不思議はないものの、やっぱ羽黒山では、開山祖である能除上人(蜂子皇子)が日本海を渡って上陸した時、その道案内した「霊烏」の神名として冠してるのではないかな(^^ゞ。

これも「蜂子神社」で述べるが、この道案内によって能除上人は羽黒山に来て、湯殿・月山もあわせて開山した由来を持つのである(^^)。

役小角も、建角身神の子孫ともいう賀茂氏とゆかりが深いようだが、修験の神とされてるので、どっちかっつーとこれもここでは、出羽三山で修行をこなす上で必須の健脚や身体堅固とともに、道中安全保護を祈願するために「履物奉納」って事になるんだろうね(^^ゞ。

霊祭殿(旧「佛立堂・地蔵堂」)
東照社

「霊祭殿」は創建はわからないが、単層入母屋千鳥破風五間社造りで、現在の社殿は昭和58年(1983)に改築とあり、現在の外拝殿の天井には、横山大観の弟子・熊澤観明が畳21枚分の杉板に染筆した鎮魂絵「天女と神龍」が奉納されている。
この後に行く本殿「合祭殿」にお参りした後、この「霊祭殿」で先祖や所縁の霊を供養する習わしがあり、「天女」に導かれた霊が「神龍(昇り龍・降り龍)」に守護されて、昇天することを願う意味合いがあるという。

「東照社」の方は謂れが書いてなかったが、年表には1645年、天宥が東照宮を羽黒山上に勧進した事、1715年には羽黒山で「東照宮百年祭」が行なわれた事が記されている。

さらに鳥居(←)を超えると、左に広い野原の一帯(パノラマ5枚・180度以上)

物凄い濃霧となり、恐ろしいぐらい神秘的だった(#^.^#)。
不思議と、カメラを構えるとフワ〜ッと霧が出て来る癖に、悪天候だとよく起こるシャッターのブレや、レンズの曇りという現象は全く起こらなかった。

よく動物とか、言葉の通じない被写体を撮影する時、たまに「写真にどう写るのか判ってる」みたいな感じを受ける事があるが、それで言うと、「山全体が生き物」って感じがして、亭主も、「そうそう! この状態で撮って、と言われてる感じ」とピッタリ同じ事を言ったので、二人ともますます不思議な感じにとらわれた(^_^;)。

さて、道順もあるが、湯殿に話が及んだので、話が行基や空海の時代から、イキナリ江戸時代に行っちゃったが(笑)、また戻って来よう(^^ゞ。

伝承の時代を経た後、歴史上に登場するのは、やはりまずは延喜式だろう。「月山の神」に、864年の正四位から位階が上がっていって、880年には従二位まで行く。

この広場↑の中央ちょっと右に、ウッスラと浮かぶのは「鏡池」である。

鏡池(パノラマ4枚・180度以上)

この池は「御手洗(みたらし)池」と言われ、古鏡が多数埋納されていたので「鏡池」と呼ばれている。
これは平安から鎌倉時代に行われた「池中納鏡(鏡を埋めて平安を祈願する)」という信仰によるもので、元は非常に古い祭祀形式とも言われ、今までに500面以上の出土をみた。

殆どが青銅鏡で、平安91面・鎌倉56面・室町2面・江戸3面・時代不詳37面と、判明する限りにおいては、圧倒的に平安時代の物が多い。
出羽三山の信仰を物語る貴重な資料で、現在は重要文化財に指定され、先ほどの博物館に190面が収蔵されている。

この池に鏡が納められた理由だが、年間を通して水位が変わらず、神秘的な池として信仰を集めたという。「鏡のように表面が穏やか」という事かな(^^ゞ。
羽黒信仰の中心でもあり、古書には「羽黒神社」と書いて、「いけのみたま」と読ませ、池が神霊そのものと考えられていた事がわかる。

「鏡池」の奥には……
霧の影から巨大な「合祭殿」が!

「三神合祭殿」(本殿)は古来から、大堂・本堂・本殿・本社などと呼ばれた、羽黒修験の根本道場。
創建は社伝によると、大同2年(807)だが、修理の記録の一番最初が、やはり慶長10年(1605)の最上義光であるから、建物の痕跡はこれより古くは辿れない(^_^;)。

が、断片的ながら、平安期における歴史的な事件や人物との関わりとしては、

1058年、羽黒山の衆徒が安倍宗任の軍と戦い、3500人が討死。
1063年、宇都宮氏の祖・従軍僧の宗円が羽黒山の社務僧に補される。
1065年、源義家(八幡太郎)が羽黒山の本社修造を開始(〜69年、修覆)。
1114年、三井寺の長吏・行尊が羽黒山に来て、光明院を建立。
1135年、藤原秀衡の発願により、月山で峰中の護摩を行なう。
1141年、「羽黒山縁起」作られる。
1172年、藤原秀衡が田川次郎を奉行として羽黒の本社を修造。

この辺りかな(^^ゞ。「前九年の役」〜奥州藤原氏への流れが現われて来るが、そういやこれらと山形県の関係って、あまり見た覚えが無いような……。

1141年に作られたという「羽黒山縁起」というのが興味深いが、中身を知らないし、そもそも開山動機となった能除上人(蜂子皇子)自身が、日本海から上陸した由来を持つので、この際、ちょっと範囲を拡大して周辺事情を書かせて貰う(^^ゞ。

この出羽三山から日本海に出ると、酒田や鶴岡といった平野に出会う。地図L
特に酒田には「城輪柵跡」があり、平安期には出羽国府が置かれた。政庁をはじめ遺構が整備されており、赤い柱をもつ東門が今は復元されて建っている。

出羽三山……中でも北に位置する羽黒から見ると、酒田や鶴岡は日本海側に拓ける平野として近く、先ほど通った最上川も酒田港に流れ出ている。つまり水流を辿れば一本道だ。

芭蕉が羽黒山の名の由来をアレコレ考察した後に、続けて「出羽の貢は鳥の羽毛」と文を繋げるのも、「国名が出羽だから鳥の羽根」といった語呂合わせではなく、国府との近さを意識しつつ、雨量で急流となる最上川を、日本海から入って来る道筋としてより、貢を運び出す水流と見たのかな、という気もする(^^ゞ。
(出羽からの貢には他に、砂金・馬・布・漆・鷲羽・水豹(あざらし)皮などが上げられる)

……と、話はやや広範囲に及んだが、国府との関係を意識して見ると、平安から鎌倉の長い時間を経て、いきなり南北朝の頃に熾烈な流れに揉まれた事情にも、もしかしたら関係するのかな(^^ゞ。

↑この「合祭殿」は何しろ巨大で、こうして濃霧の中で見ると尚更、恐竜でも近くに居るような迫力が(^_^;)。。
高さはナント、28mもあり、しかも参道が脇を通り抜けるため、目前を塞ぐようなデカさを直接感じる。

ところで安倍宗任というのは、「前九年の役」の叛乱首謀者・安倍貞任(俘囚)の弟で、兄・貞任とともに叛乱に加わり、ともに討伐された側の人物である。

遅れ馳せながら、「出羽」は日本海側、だいたい現在の秋田県と山形県が相当する。
対する「陸奥」には、太平洋側の岩手県と宮城県が属する。
この縦長の仕切りの中央、岩手県の秋田県寄りにいわゆる「奥六郡」がやはり縦長にあり、安倍氏の本拠地があった。が、この辺りの北緯は岩手県か秋田県なので、南の山形県はあまり関係ない(^^ゞ。

が、山形県の東隣の宮城県は、初めから終わりまで深く関係する。多賀城があったし、途中から加わった藤原経清(奥州藤原氏の祖)も宮城県にいた。
そもそも前哨戦の「鬼切部の戦い」(1050年)からして、酒田と羽黒の間ぐらいの北緯の、しかも山形県境で勃発している(^_^;)。

1058年と言えば、経清も勢いに乗って税取立てとかやり始めた時期で(笑)、出羽もそろそろ、「隣国だから関係ない(^^ゞ」とも言っておられず、貞任・経清の討伐に窮し、源頼義(義家の父)が助けを求めた清原氏(俘囚)が勢力基盤を持っていたのも、出羽(山北三郡=奥六郡の西隣)である。

貞任・経清を倒すのに、清原氏の救援が必須だった事を思えば、時期や位置としては羽黒の勢力が出て来ても、それほどおかしくないかもしれない(^^ゞ。
清原氏の跡を受けた奥州藤原氏も、その基盤が安定し、広い勢力で仏教保護に努めた時期となれば、三代秀衡の時期ぐらいと見て、これまたそう違和感はないのかも?

「合祭殿」正面(霧が深い!)
屋根裏の梁には真っ黒い人影が(・・;)。。

ちょっと見えにくいが、この屋根下の梁の上に真っ黒くうずくまる人影、正面から見ると、口が真っ赤で目が金色、鬼か魔物が凄んで見下ろしてるようで、何だかスゴイ迫力(^_^;)。。

奥州藤原氏が滅ぼされて鎌倉時代は、三代実朝が暗殺された後に起きた「承久の乱」の前に、この羽黒山の衆徒たちが地頭に蜂起している所を、後鳥羽院は羽黒山の総長吏として、近臣・尊長を補任している。

既に平家が滅んでおり、源氏を頂点として増長する武士政権・鎌倉幕府に対して、朝廷と貴族たちは「承久の乱」にあたって僧兵をアテにしていたわけで、羽黒の後には叡山にも、後鳥羽院の皇子・尊快を天台座主として僧兵の統制に当たらせている。

「承久の乱」の後も、鎌倉時代初期は鎌倉御家人が支族や家人をやって、間接的に治めさせていただろう。
そして徐々に、実質的に入って来て各々治めたので、(山寺もそうだが)この羽黒でも鎌倉仏教の影響が強いと思われる。
この地域は、大泉荘から地頭の武藤氏が出て、政氏の代に羽黒の別当を称し、子孫はその職を継いだ。

「合祭殿」内部、信者サン達が集まって
スルスルッと幕が下り、祈祷開始(^∧^)

ここは、特に冬期は月山や湯殿山への祭典が困難であるので、年中行事の臨時祭典の折には、全て羽黒山で執行されるための場であった。
江戸期までは「羽黒三所大権現」、明治の神仏分離以後は「大権現」が廃され、「出羽神社」となったが、建物の意義は変わらず、今は「三神合祭殿」と呼ぶ。

拝殿はなく、いきなり本殿に入る「合祭殿造」と呼ばれる羽黒独特の形式で、まず手前に大きな額縁で、左から「湯殿山神社」「月山神社」「出羽神社」と書かれた、それぞれ三つの参拝所が設けられており、奥はこのように「三神合祭殿」と大書された額縁が掲げられる。

三つの参拝所では、「月山神社」が「月読命(天照大神の弟神)」を祀り、大漁満足・厄除開運・延寿息災を祈願する。

この羽黒山は、「出羽神社」と称し、「伊氏(「氏」の下に「一」)波神」を祀る。最初「イザナミ(゚.゚)?」と読んでしまったが(笑)、この神名は「いでは」と読む。出羽の事だ。ともに「稲倉魂命(食物を司どる神)」を祀っており、五穀豊穣・災難消除・家内安全・子孫繁栄を祈願。

「湯殿山神社」では「大山祇命(各地の山を管理する神)」に国土安全・夫婦和合・縁結び・安産成就、「大己貴命(国土経営開拓の神)」に交通安全・営業成就・航海安全、「少彦名命(医療医薬酒造の神)」に国土開発・病気平癒を、それぞれ祈願する。

最上義光の修造の後も、修築・再建と火災炎上を2度繰り返したため(^_^;)、東叡山からは覚諄を別当に任じ、この「合祭殿」が、文政元年(1818)に再建されて現在に到っている。
主要材は杉、内部は総漆塗り、屋根には2.1mもの厚い萱葺が覆う。国指定重要文化財。

「合祭殿」の続き「鏡池」の隣には
手前に「鐘楼堂」がある

「鐘楼堂」自体は元和4年(1618)に、最上家信によって寄進され再建された物で、残っている建物としては、次回載せる「五重塔(国宝)」の次に古い。

「鐘」になるともっと古く、鎌倉時代の建治元年(1275)の銘があり、東大寺・金剛峰寺の次に古く、大きさについても、この二寺の鐘に次いで、総高2.86m、口径1.68mと巨大。

これは蒙古襲来の時、敵の艦船を全て海中に沈めたとして、鎌倉幕府が「羽黒の九頭龍神の霊威」と感謝し、鎌倉から鐘大工を送り込んで鋳造させた物で、池中蓮花や天人飛翔と、鐘に描くには珍しい絵柄が刻まれている。鐘・鐘楼堂ともに、国指定重要文化財。

その後、羽黒の動向が注目されたのは前述の通り、南北朝の頃で、まずは大覚寺党と持明院党の合戦が続き、寒河江の大江氏や、冒頭に書いた北畠顕信など、南朝側の動向が示される。

南北の勢力がこの出羽で帰趨を決するのに、羽黒山の僧徒の存在が非常に大きかったからだろう。南朝は羽黒の衆徒と結んで庄内・藤島城に勢力を張り、一時は強大だった。

一方の北朝勢力としては、武藤氏から出た大宝寺氏などが上げられるだろうか(^^ゞ。
山形城で見た斯波兼頼も、山形に入部するや、大江氏などを滅ぼして北朝勢力を決定させ、以後の最上にまで繋がる戦国期に至るのである。

「三神合祭殿」のさらに先に二つの堂が並ぶ(パノラマ2枚)

↑薄ボンヤリと、濃霧で殆ど見えない所に赤い鳥居がある(^^ゞ。

奥が厳島神社、手前が開祖・能除上人を祀る「蜂子(はちこ)」である。→

蜂子皇子は32代・崇峻天皇の皇子と伝えられ、推古元年(593)、海路を北上し、庄内由良港に上陸。三本足の霊烏の導くままに羽黒山に登り、難行苦行の末、羽黒大神を拝し、次いで月山、湯殿山を開いた。

毎年8月深夜の例祭に併せ、秋の峰に入峰した山伏達が、社前の護摩壇で大柴燈祭を執行、天下泰平国家安穏を祈願する。

蜂子皇子は出羽に五穀の種子を伝え、産業を興し、土地の人々に稼穡の道と治病法を教え、民の全ての苦悩を除いた事から「能除太子」と称せられ、その修行が羽黒修験道に発展、自らも91歳の高齢を保った。

「能除太子」は、羽黒山では「能除上人」と書かれるが、巷では「能除大師」という尊称もちょくちょく見掛ける(^^ゞ。
大師号の話は知らないが、文政6年(1823)には「照見大菩薩」の称号を賜わり、博物館では確か、この称号を、「役小角が"神変大菩薩”を賜わったのだから」として賜わった、という経緯だった覚えが……。

←「蜂子社」の側から見える「三神合祭殿」。これがまた何だかスゴイ感じだった(^_^;)。

ところで昔、私が出羽三山に行ってみたいと思ったのも、この能除上人の事を知ったからだ(^^ゞ。

何に惹かれたか明確には思い出せないが、特に「崇峻天皇の子だから」というのに限らず、東北の名峰山岳には惹かれるものの、やっぱりそれだけでもない。

一番気になったのは、恐らく「尊影」に描かれる、実にユニークな「能除上人の顔」ではなかったか(爆)。

大っぴらに撮影&アップできる状態を得られなかったが、「能除」「蜂子皇子」で検索して貰えれば、あのスゴイ尊顔がズバズバ出て来るので、是非お試しあれ。

口が裂けた焦茶色の顔は「怪異」「醜い」と表現され、意図する所は、修験道における苦行ともあいまって、「我が身に多くの人の苦しみを負ったから」という事だろう。

山寺における慈覚大師も、厄年にあたって、疫病神が「体を貸して欲しい」とやって来たので、おとなしく指を出したら、全身が苦しくなったので呪文を唱えて追い出した、という伝承があって、疫神祓いに、慈覚大師の絵を書いたお札を貼る風習がある(^^ゞ。

で、正規のルートだと、今来た順番はむしろ逆廻りで、山頂に達して一番最初に、この「蜂子社」を拝する事となる(^^ゞ。
この「蜂子社」に入って来た時、「濃霧で鳥居が殆ど見えない」と書いたが、実はここに入口らしき鳥居が配されてはいる。

コレももしかしたら、「ウチは元は寺よっヽ(`Д´)ノ」という、修験の神様の思し召しで、特にドッと濃霧が現われ、写真に写らなかったのかな(^_^;)。
もっともその鳥居も、江戸講中による寄進の青銅門が元からあり、戦争で供出の後、学童の寄付で再建立したのだそうだ。



<羽黒山・参道、1>

というわけで、本来は山の中の参道をエンエン登って、上記の社郡を参拝するのだが、我々軟弱者は、(次のお宿がまた遠くて早めに引き上げないと、というのもあって)さっき来た車道(参道とは別路)でバック(^_^;)。

なので、「出羽三山神社・鳥居」という場を、今さら潜ってみたりするワケ(爆)。

さっきの絵地図も判りやすいが、正確な地図だと、地図M←こうかな(^^ゞ。
我々はまず、「羽黒山自動車道」(有料)ってのを南から行っちゃって参拝を済ませ、山の北西側のスギ並木とか書いてある辺りに、後で来たわけ。

「出羽三山神社」入口の鳥居
入ってスグ右に「天地金神社」

応永4年(1397)に創建されたが、兵乱で大破。安永8年(1779)に再興された。元は「元三大師像」を本尊として「大師堂」と称していたが、今は須佐之男命を祀って「天地金神社」となっている。

←正面が「随身門」。
元は「仁王門」だったが、神仏分離によって名を改めた。
↑随身門の前の「天拝石」。

「随身門」(元・仁王門)は、元禄年間(1688〜1703)、秋田矢島藩主の寄進で建てられた。
「仁王門」の頃の仁王像は、神仏分離の時に別の場所に移され、宝暦2年(1752)に作られた、随身像(櫛石窓神・豊石窓神という、穢れを防ぐ門戸の守護神)を安置した。

「天拝石」は奇石を通して天を祭ったもので、修験者の行法を行なった場所にあった石。

随身門を潜った途端、イキナリ森の奥に下り石段が始まっている。

この、本当に「時間の無駄も余計な事もせず、さぁ修行しましょう(^^)」というムードに感動した!(笑)
この門を潜る手前までは精進料理の店とかあって、それこそ神仏分離前とか、かつては修行者(門前だから妻帯修行者)の宿坊とか、さぞ多かったんだろうな〜と思った。

さらにトボトボ降りて行くと、小屋ぐらいの祠堂が数軒立ち並ぶ一帯に出る。↓
降りきってから振り返る石段→
実は前回の山寺を、亭主に「石段を登って行く山」と前もって説明しといたら、こんな感じにイメージしてたらしい(笑)。

この階段は「継子坂」と名付けられ、本当はこれより山頂に向かって登り坂になるハズなのが、随身門から入ったこの箇所のみ、下り坂となっている。

また確かに羽黒山は、あの山寺よりも、さらに「山」という風情が濃厚で(^^ゞ、特にこの道の杉並木は樹齢300〜600年、元から杉が多かった上に、江戸初期の天宥が植林を奨励してさらに増えたのだろう。
山頂まで延長1.7キロ、直径1mを超える巨木が184本、総本数445本。「羽黒山のスギ並木」として、天宥法印の功績を見る遺跡でもあり、特別天然記念物に指定されている貴重な自然資源でもある。

この小さい祠堂の合間を抜ける道が、時代劇ぽくてカッコイイ。剣豪か浪人が住み着いて居そうで(笑)。↓
やがて赤い欄干の橋を渡る。→

橋の渡る川は「祓川」で、ここまでを「山麓」と称し、336坊の「妻帯修験」が住んだ。
一方この橋の先を「山上」と呼んで、30余ヶ院の寺院があって、こちらには肉食妻帯をしない「清僧修験」と、俗・聖が住み分けていた。

境界を踏み越えて「山上」に向かう折、この祓川の流れで身を清めた。夏にはかじかの鳴く声も聞こえると言い、心身ともに清々しく水垢離をとって山頂へ赴いたのである。

橋を渡る頃からよく見える「須賀の滝」も、江戸初期の天宥の作である。
天宥は承応3年(1655)、月山の山麓・水呑沢から約8キロもの間を引水して、この祓川の懸崖から滝を落すよう工夫している。

境界を踏み越えて「山上」に向かうこの橋を「神橋」と言い、全長20.8m、巾4.48m、現在の物は昭和52年(1977)に架け替え修復されているが、古来から修復の記録が多く見られる中、文禄2年(1593)、当時は大宝寺城主だった直江兼続が奉納した「鉄製擬宝珠」も、歴史博物館に収蔵されている。

↑神橋から見る滝と反対側の祓川の流れ。

橋を渡り切り、いよいよ「山上」に向かう途中、滝に近付く橋がもう一度渡されて、近くに行ける(^^)→
その昔はこんな滝に打たれて、清めの行をしたんだろうねっ(((≧▽≦)))ブルブル

今回は、導きの神と食べ物の神のセットが多かった気がするが、能除上人と霊鳥にも見られる通り、東北に来ると、鳥と水に関する信仰や伝承をよく見掛ける気がする(^^)。
これまで「たわごと」でレポした場所でも、会津若松の「御薬園」、上山温泉などが、「鳥が水(や温泉)を発見した」という筋だった。多賀城の周辺にもあるらしい。

また温泉や霊水など水そのものを祀ったり、薬師信仰を残す由来に関わってる伝承もよく見る。
山頂の本殿近くで見た末八社では、「八坂神社」がスサノオを祭神としていて、八坂=スサノオは全国に珍しくないが(^^ゞ、案内を読むと、スサノオの妻となった「櫛稲田姫」の存在が、水霊と結び付いて書かれてることに気づく。

「(スサノオと櫛稲田姫の結婚が)水霊に奉仕する神女との婚姻を示しており、さらに水がもつ清らかさが汚穢を払う意も含んでおり、農神疫神としての神格を持つ」となっていた。

原型はともかく、先祖崇拝(供養)と霊水や霊鳥の関係は、「穢れを落して(天に近い)山に残り、子孫を見守る」という考え方に凝縮され信仰されたように思えた。
出羽三山は、羽黒から登り、月山を通過した後、湯殿山に下りる修業道だが、最終的に到達する「湯殿」は、死後の再生を象徴しており、山における数々の苦行の果てに穢れを去って、土地の守護を果たす祖霊となることを意味しているようにも感じた。

いよいよ祓川を踏み越えた先に行く(振り返って撮影・パノラマ2枚

次回はこの「羽黒山」の続きから始まり、湯殿を経由しつつ福島県まで南下して3日目終了。
4日目は福島県「鯖湖神社」から始まり、「阿津賀志山防塁」「霊山(霊山神社・霊山寺)」、そして「相馬神社」まで達したい〜!

以上、関連事項は、
2007年3月<鶴ヶ城、2(続き)>内
   〃   <会津松平氏庭園「御薬園」>内
   〃   <天寧寺>内
2007年4月<白布温泉に戻る>内
   〃   <米沢「上杉神社・松岬神社」「上杉博物館(伝国の社)」など>内
   〃   <小野川温泉>
2007年12月<白石城>内A
   〃   <白石城>内B
2008年4月<上山城>内
   〃   <上山温泉「下大湯」>
2008年5月「更新終了」の「戦国武将一覧」内「最上義光
2009年1月<磐梯山慧日寺資料館>内

<つづく>

2009年03月26日
 
     






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