<2008年・城主のたわごと6月>




2008年2月「麻賀多神社」続きから、3月の風景そして……

我孫子と利根川を渡って牛久沼まで出てみた!



     
  今年の春は妙な予定廻りで、3末〜4月はド修羅場だったが、その前は余裕があった(笑)。

前回の続き、2月の「麻賀多神社」をお届けの後は、3月に入って、我孫子周遊の勢いのまま、利根川を渡って、イキナリ茨城県の牛久沼まで行ってみた(^^ゞ。

目ぼしい目的も無く、亭主が「地図で見るとこの沼も大きいよね〜」とか突然言い出したので(笑)、何となく北上してみたんだが、行く先々で出会った名所をレポしてみる。
その最後「牛久城跡」のみ、次回と2度に渡ってお届けする。



■2008年2月・千葉県佐倉市
<麻賀多神社、2>


場所は最初に地図A
前回は外からの全景と、境内に入ってスグの所を出した(^^)。では続けて進もう〜♪

階段を上がると、参道の左に社務所、右にはちょっと広い地面の敷地があって、周囲は鬱蒼とした背の高い木々に包まれ、ちょっと山の中にある神社みたいなムード(^^)。

前回も書いた通り、西日が真っ直ぐに当たってたから、写真だと暗い森の中とは思えないかもしれないけど(笑)。

参道の左に社務所↓
右には「祓戸」の神様が祀られている→

「祓戸の神様」というのは、「瀬織津(せおりつ)姫」「気吹戸(いぶきど)主」「速秋津(はやあきつ)姫」「速佐須良(はやさすら)姫」の四神で、総称の通り「お祓いをする神」。

この四神は記紀で見掛けない神様たちだけど、神社でお祓いをして貰う時には、読み上げる祝詞(のりと)の中に登場する。
イザナギが、死んだ妻のイザナミに会いに行った後、黄泉の国の穢れを祓う禊(みそぎ)をした時に出て来る神々に相当する、とも言われているようだ。

つまり神社でお参りをする時に穢れのある身だと、本当は神様がお願いを適えてくれないのだ(>_<)!
だから本殿で主祭神にお祈りをする前に、本来はこういう神様たちに「災厄・汚穢・罪障などを解除」のため、まずお祈りをして、あらかじめ穢れを祓って貰うのが正式なんだが、どこの神社でも見掛けるわけではないよね(^^ゞ。

千葉県には香取の神様が古くからいたし、伊勢神宮など神社の領地になってる場所も多いから、こういう細かい所で古式なんかな〜とか思ってたら(笑)、ここは古代の印旛国造(いんば・くにみやつこ)の流れを汲んだ神社だったようだ(^^ゞ。

「国造(くにみやつこ)」は、大化の改新より前の地域史を調べる手掛かりとされ、特に東国では文献が限られているものの、考古学の上でも重視されている。

←ちょっとボケてスイマセン(^_^;)。本殿の屋根の紋を撮影したんだけど(笑)。

この「麻賀多神社」の名の通り、社紋は「麻の葉」を象っていて、これは昔、子供の産着(うぶぎ)に「麻の葉」の模様を使用した事にちなみ、この神社が、安産と子育ての神様として祈願されているからだ。
屋根のは見えにくいので、内部の垂れ幕にも写っているので、↓

←本殿。
内部・社紋の「麻の葉」の紋様(^^ゞ↓

現在の本殿は、「一間(いっけん)社」の流れ造りで江戸時代中期初頭の寛文13年(1673)に建築、元禄9年(1696)に再建。建造柱の斗キョウ・木鼻、高欄の擬宝珠(ぎほうじゅ)などに創建時の特色が残る。

この地方には古くから人が住み、周囲が海であったことから、昔この地方を神津(こうづ・神の港)といわれているが、ここの由緒では、2000年の昔から麻の産地で懸とも云われた時代があったと言い、麻は織物類の原料として貴重で、朝廷で身に着ける衣はこの土地から献上されていたと伝える。

そのため、ここの神の紋は特別に麻の葉になり、麻の葉の柄(がら)や麻の織物などが、婚礼・棟上・地鎮祭等お祝いに必ず用いる事の由来とも言われる。

麻賀多神社の創祀については、二つの時期が由緒に言われている。
思うに、神社の由緒と所在地の由緒ではないかと(^^ゞ。 まず応神天皇の頃(日本書紀に従えば、300年代)。次が推古天皇16(608)年である。

まず神社の由緒では、日本武尊(ヤマトタケル)の東征の折、この地方の五穀の実りが悪いので、里人を集め大木の虚(うら)に鏡を掛け、その根本に7つの玉を産めて伊勢神宮に祈願したところ、その後は豊年が続いたという。

そして応神天皇の頃、印旛国造(いんばくにみやつこ・地方長官)に任命された「伊都許利(いつこり)」が創祀といわれ、上記の鏡を霊代(たましろ)として祀り、この地方の開発につくしていた所、夢の中で霊示を受け、この神社の創祀に至る。

この「印波国造」は、「国造本紀」に「神八井耳(かむやいみみ)命の八世の子孫・伊都許利(いつこり)命」として、確かに出て来るようだ。

「神八井耳命」というのは全国に広がる多くの子孫の祖とも言われるようだが、「神武天皇の皇子」って事だし、日本武尊とか、あと応神天皇が300年だかまでは、ちょっと……まぁね(^_^;)。。

ただ「印旛(印波)国造」が重視されるのは、千葉県の北部(下総)では、利根川の南に竜角寺古墳群という、全国でも著名な群集墳があり(2006年12月「城主のたわごと」<房総のむら>内)、古墳から文献史に移行する500〜600年代の勢力関係として注目されているらしい。
その辺りの古墳に「印旛(印波)国造」が勢力を張った可能性が見られるのだとか(゚.゚)。

利根川からはちょっと離れているが、実は、ここ印旛沼の方にも古墳が多く見られ(公津原古墳群)、この麻賀多神社にも「奥宮」には古墳(手黒麻賀多神社古墳)があるみたい(^^ゞ。

利根川の古墳群と印旛の古墳群については、先に利根川の方に勢力が張られ、後で印旛沼に勢力が移動したとか、宗家が利根川で没落して、印旛沼に進出した支族の方が繁栄し、印旛沼の方に「印波」の名が残った(移ったと言うべきか)という説がある。

逆に印波国造が先に印旛(公津原古墳群)に本拠を持ち、後から利根川の勢力が急成長して印波国造になったから、印波国を分割して古墳群を作ったとか、そうじゃなくて竜角寺古墳群と公津原古墳群の間で輪番制で国造職が持ち回りされてたとか、色々言われるらしい(^^ゞ。

本殿の横の敷地(階段側・パノラマ4枚180度以上)

↑逆側・巨大な大杉が祀ってある(前方側・パノラマ4枚・180度以上)

「奥宮」というのは、「麻賀多神社」には、ここ成田市の「台方社」と、佐倉市の「船形社」の2社があって、それぞれ神を祀っているが、後者を指す。
台方と船形の位置関係はこんな感じ→地図B

ここ「台方区の稷(あわ)山」の社で「稚産霊(わくむすび)神」を、もう一つ「船形区の手黒」の社(奥宮)では「稚日霊(わかひるめ)神」を祀っている。

印旛国造・「伊都許利(いつこり)命」が夢で受けた霊示とは、稚日霊(わかひるめ)命からの宣旨で、「洞木の下の地中に玉(勾玉)を掘り出して、和久産巣日(わくむすび)神を祭れ」というお告げだった。そこで勾玉を掘り出し、御霊代として稚産霊(わくむすび)命を祀り、日本武尊(ヤマトタケル)の鏡と併せて「麻賀多の大神」として崇め奉った。

稚産霊(わくむすび)」は、記紀ともに火神カグツチを産んだ後の母イザナミ神から、日本書紀では孫、古事記では子として生まれ、伊勢神宮の外宮に祀られる豊受神の親神。
この死の間際のイザナミ女神に由来する神々には、穀物や食物の発祥が言われるので、「稚産霊(わくむすび)神」は穀物や養蚕の神とされている。

稚日霊(わかひるめ)」の方は日本書紀に登場。スサノオが天照大神の機織(はたおり)の場に馬の皮を投げ入れたのに驚いて死んでしまう女神だが、この機織(はたおり)をしていた事が、麻と関係するのかもしれない(^^ゞ。麻賀多神社では「天照大神の妹神」としている。

社伝に戻る。
何しろ8代、神津の両郷を神領として奉斎の後、推古天皇16年(608年)、つまり聖徳太子の時代、新たに宮居をこの稷山に建て、「麻賀多の大宮」と名付けた(麻賀多大宮殿)。
これがもう一つの創祀で、明確な所在としての社の起源という事だろう。

この大杉は「公津の大杉」とよばれ、その聖徳太子の頃に植えられたと伝えられているから、本当ならかなり古い(゚.゚)。


大杉は、太さ8〜9m、高さ40mあまり。東日本一と言われ、特に不老長寿祈願の御神木として昔から崇拝されている。
(↓こたつ城主「こ〜んなに大きい!」と主張)
多くの祈願が行われて、大願成就前には梢より霊光が輝き神のお告げがある、と言い伝えられる。

また、大杉の前にかかる橋は「大杉成就橋」と看板され、さらに「大杉保護のため参道の清掃はしないで下さい」と注意書きがあった。すごく大事に保護されてる様子が伺える。

最初「聖徳太子の伝説って全国各地にあるよね」とか言いながら、気軽に通ったのだが、どうも印波国造の関連になると、ちょっと別の視点が介在するらしい(^^ゞ。

先ほど話した利根川の方の竜角寺には古墳群と、竜角寺という寺そのものの跡があり、古墳は後に寺に取って変わった事から、時代の連続性に関心が持たれる一方、見付かった瓦文字が大和山田寺の瓦当文様に似てるので、蘇我氏との関連が言われる(山田寺が蘇我倉山田石川麻呂が建てたから)そうだ。

が、どっちかっつーと最近は、蘇我氏そのものというより、蘇我氏と関連の深かった推古天皇や聖徳太子との関連が注目されてる気がする(^^ゞ。

いずれにせよ、この辺りの豪族が古くから朝廷と密接な関係を持っていたとしたら、麻の紋は古代の庸でおさめた「布」から来ているのかもしれないね(^^ゞ。関東には麻と名のつく地名や古く麻の産地と言われる場所が多い。

ただ全国でも「麻賀多」という名の神社はあまり多くないらしく、この印旛沼の周辺にしかない、という記述にもしばしば出会う(゚.゚)。それでネットでもよく見掛けるのだろうか。

本地御鎮座以来、1400年近く、印旛郡下18麻賀多の総社として、筒粥祭、御田植祭、豊年神楽などの古い儀式が継承され、祭神ゆかりの古い地名等も現存し、平安期には、延喜式が編修されると式内社に指定を受け、神名帳に記載されているという。

社は国幣社で勅使の往来があり、印旛湖畔に建つ大鳥居(一の鳥居)は桓武天皇のころ(約1200年前)勅使・大伴家持の寄進によるものとされている。

麻賀多神社の森は大別すると、スギ林、スダジイ林、ヒノキ林、カシ林からなり、アカガシ、ケヤキ、アカマツ、ヒノキ、スダジイの巨木が林立する、北総地域に残された貴重な自然林で、先ほどの大杉は県指定の天然記念物、森面積 2.80ヘクタール、麻賀多神社と超林寺及びその周辺地域からなり、森郷土環境保全地域となっている。

ちなみに超林寺というのは、千葉輔胤の命により、文明13年(1481)に開山されたと伝えられる。

今度は本殿の逆隣の祠
その隣の建物、脇に説明版があった

説明版には、この神社に伝わる「神楽」の事が書いてあった。

400〜500年ほど前(1500年代)、常陸国からこの地方を訪れた万大夫一座が、由緒ある麻賀多神社の尊厳さに感銘し、伊勢神楽の流れを汲む十二神楽のひとつ「獅子神楽」を里神楽として奉納したことにはじまると伝えられる。

現在は、台方地区と下方地区が年番でその任にあたり、舞手は、年番地区で、2年以内に結婚した新郎から選ばれ、奉納する習わしだと言う。

神楽は、「御神楽」「巫女神楽」「里神楽」の三部と、「四方固め」「鈴振りの舞」「御幣の舞」「はながかり」等7種の舞に別れ、雄獅子と雌獅子の二匹で舞う。成田市指定無形民俗文化財。
毎年07/31の大祭で奉納され、印旛沼近くの鳥居河岸においても奉納されるそうだ(^^)。

五穀祈願所の石臼
臼を廻す取っ手?
「天之日津久神」社

同じく本殿の「大杉」とは逆側の敷地にあった「五穀祈願所」。古そうな石臼(゚.゚)。
産業および五穀の神様を祀る神社に相応しく、ここで穀物をひいて神様に捧げるのかもしれない。

右の「天之日津久神」は、境内には説明がされてなかったが、ネットでは二次大戦の末期ごろにあった「日月神示」にまつわる社として紹介されているのを見掛ける。
いわゆる未来予言の霊示とされている物で、とても全部は読めてないが(^^ゞ、やはり食物に関する注意がある所など、麻賀多神社ならではのお告げなのかもしれない。

他にも祠が多かったが、印旛国造社、馬来田郎女社、猿田彦社、青麻社などがあるようだ。また付近の「七坂」「七井(湧水の名所かと)」など紹介されていた。

馬来田(まくた)は、真里谷(千葉県南部)に行った時に通った駅の名で、実は最初「麻賀多(まかた)神社」の名を聞いた時、「関係あるのかな〜(^^ゞ」と思ったんだけど、どうなんだろう?(「マ」で始まる地名は千葉に異様に多い)

以上関連事項は、
2005年11月<すすきロード(千葉ニュータウン)><うなぎロード(印旛沼〜宗吾街道)>
2006年12月<房総のむら>内
2008年5月<千葉ニュータウン〜印旛沼><麻賀多神社(成田)・1>




■2008年3月ごろ・千葉県松戸市
<五香稲荷>


古代はともかく、穀物・豊穣・殖産の神様と言うと「フツーはお稲荷さんかな」と思うんだけど(^^ゞ、稲荷社ってのも千葉県でもフツーに多いと思う。

街なかにフツーに見掛ける鎮守
五香稲荷(松戸)
開墾記念樹

場所は地図C
謂れはよく判らないけど、開拓や開墾の際に創建されたようで、記念樹が保存されている小さな神社。
松戸は維新以後、多くの移民(没落士族とか)が開墾した事から、次々と各村の地名がついたから、ここもそういう過程にあった所かもしれない。

今回はこの先、実は古代から一気に時代が飛ぶので、ちょいと挿入してみた(笑)。



■2008年3月ごろ・千葉県柏市
<黄砂吹き荒れる手賀沼>


3月だったと思う。休みに手賀沼に行ったら、突然、砂嵐になった(・・;)。。
ホントに「道路を越えたらそうなっていた」という感じで、それまで空は真っ青に晴れ渡っていたので、ビックリして次々とシャッターを切った。

別に面白くも何ともないだろうが、その時の様子をお届けするのだった(笑)。場所は地図D
この道路の先がイキナリ
真っ黄色と言うか、湖の方面が霞んでる

わ〜見事に砂が舞い上がっちゃって
枯葉? 何? バンバン飛んでる

取り合えず沼畔に進んでみる
左方向は多少、薄明かり気味だが

到着。荒れ狂う手賀沼(パノラマ3枚・ほぼ180度)

一見、海の波のようだが
吹く方に揺れ動く様は、まさに風の仕業(^_^;)

海岸部に住む人だと「これが何なの?」と思うだろうが、ここは殆ど溜め池に近い湖。通常は殆ど波は無い(^^ゞ。
それがこの日は、盥(タライ)の中の水が右に左に揺れるように、ザザーッ、ドドー! と繰り返し波立っていて、「海だわ(・・;)」と。

強風に興る水走りと飛び惑う鳥の群

黄砂の舞う中を戻る
空も二重の色を成す(基本は快晴の日)

厚い雲と陽光
青空が見える下も、依然黄色い砂塵

行く手から竜巻のような砂塵
この日は砂嵐が続いた

あまりシャッターチャンスが取れてないけど、こういう坂道の上からドッと襲う竜巻っぽい砂塵が、フロントガラスに「ザッ」と砂をかけると、一瞬だけど視界を真っ白にする。
車だと多少でもスピードが出てるから、ちょっと怖かったね(^_^;)。

この後は、どの建物の中でも床に砂が入り込んでて、砂嵐の凄さを物語っていた。。

以上、関連事項は、
2005年11月<将門神社>
2006年8月<手賀沼>
2007年7月<逆井〜手賀沼・栗ヶ沢>
2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降
2008年4月<柏市・手賀沼>

2008年5月<年末(^^)>



■2008年3月・千葉県我孫子市〜茨城県
<旧村川別荘・我孫子宿本陣>


というわけで、黄砂の風と共に時代は飛んで(笑)、今回この先はド〜ンと近現代(^^ゞ。
ここは手賀沼の北・我孫子市。

手賀沼が北岸を我孫子市、南岸を柏市で分け合ってる事は前にも書いたけど、これまであまり来た事のなかった北岸に来てみた。

中世の言い方を用いると、「相馬御厨(そうま・みくりや)」と呼ばれた一帯ではないかと思うが、この地域にはわりと最近まで、古くからの手賀沼(古くは「手賀水海」)の原生的な風景が残されていた。

そうした自然をこよなく愛した数多くの文化人が、あるいは訪れ、あるいは住んだ場所で、開発が急加速したこんにち、既に失われた(或いは失われつつある)風景を訪ねる時、過去の証言に出会えるのが、こうした場所なのかもしれない。

場所はだいたい地図E
昔は断崖だったので、坂道はかなり急勾配(^^ゞ。→
今見えている低地の街並みに、昔はド〜ンと手賀沼が広がっていたのだろう。

手賀沼の周辺にちなんだ文化人に、
江口章子(小説家)・岡田武松(気象学者)・嘉納冶五郎(柔道家・教育者)・川村靖山(陶芸家)・佐藤鷹蔵(大工職人)・志賀直哉(小説家)・杉村楚人冠(ジャーナリスト)・瀧井孝作(小説家)・血脇守之助(歯科医学者)・中勘助(小説家)・中野治房(植物学者)・バーナード・リーチ(陶芸家)・武者小路実篤(小説家)・武者小路房子(随筆家)・柳田國男(民俗学者)・柳兼子(声楽家)・柳宗悦(民藝評論家)……

こんな人達が上がっているが、今回はこの中で「嘉納冶五郎」「佐藤鷹蔵」「杉村楚人冠」「バーナード・リーチ」「柳宗悦」なんて名前が見受けられる中、「村川堅固」の別荘地に訪れてみた。

旧・村川別荘の全景(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑左にチョコと見える門は、「子の神古墳」のある「子の神神社」(子の神大黒天)。後で行く(^^ゞ。

村川別荘の門(水〜日、9:00〜16:00公開)
入ってみよう〜(^O^)

手賀沼に下る斜面を利用して設計されたのだろう。林の石段を下って行くと、屋根を上から見れる風変わりな建ち方で、別荘が顕われる♪
降りる途中に見えて来る側面が素敵だった(^^)。→
さらに降り切ると、さっきの門が林と傾斜面の向こうに小さく見える。↓

←竹造りの手すりがGOOD。
↓門(拡大)。

この「旧村川別荘」と我孫子について、ちょっと語りたい(^^)。

村川堅固は、明治・大正・昭和期を通した西洋史学者で、明治時代の1875年に生まれた。
出身は熊本県で、同じく熊本(肥後)における江戸期の国学者・中島廣足(藩校「時習館」国学師範)の遠縁にあたる。

堅固が旧制第五高等学校(熊本)の学生だった時、校長だったのが嘉納治五郎(教育者・講道館創設者)。
嘉納治五郎というのもビッグネームで(^^ゞ、特に「柔道の父」の別名で有名だが、やはり嘉納が熊本の旧制第五高校の校長だった時、同校で教師をしていたのが小泉八雲だったので、ちょうど八雲の著作「東の国から」が書かれた時期と一致し、その中の「柔術」という作品への影響が顕われる。

嘉納も八雲も東京帝国大学で教鞭を取っており、熊本の旧制第五高校〜東京帝大という流れは、嘉納治五郎・小泉八雲・村川堅固に共通し、興味深い人脈図と言えるのかもしれない。

村川堅固は、1898年、東京帝大文科大学の史学科を卒業し、さらに1903〜06年、ヨーロッパに留学。帰国後すぐに東京帝大の助教授となる。
翌1907年、後にこの別荘を引き継ぐ息子の堅太郎が生まれ、堅固は1912年、続けて東京帝大の教授となった。

嘉納治五郎が、その前年の1911年に、ここ我孫子に別荘を設けていた事がキッカケとなり、堅固も大正6(1917)年、この土地に家(旧村川別荘)を持ったと言われている。
また、この我孫子には「白樺文学館」があり、いわゆる「白樺派」の資料展示があるわけだが、活躍した人物に名を連ねる柳宗悦も、嘉納治五郎の甥にあたるらしい(^^ゞ。

さて、階段を降りきった地で出会うのが、ここ「母屋」である。→

村川堅固はさらに大正時代の1921年、我孫子宿本陣にあった離れをこの地に移築し、一部を改装して母屋とした。
この母屋は元は茅葺だったのが、今は瓦葺きに変えられているものの、江戸時代後期の我孫子宿の建築をしのぶ資料として、この地で保存されている。

ここから、お隣の「子の神古墳」まで、地元のボランティアの方が案内をして下さった(^^)。

側面(パノラマ2枚)。では入ろう(^^)。
古風な造りの障子

拡大。あまり鮮明ではないが、図柄は馬と松と水流みたい(^^)。

↑昔なら当たり前すぎる程ありふれた何気ない図柄なんだけど、豊かな水流と松、そして何より放牧を思わせる走り馬の群など、私なんかは相馬御厨を発祥とし、江戸期も馬を飼育されたこの辺りに相応しいと思った(^^)。

村川堅固も歴史に詳しい先生だから、やはりそういう所に着目したんじゃないかな〜という気がするんだけど(^^ゞ、こういう建物に使われる、あるていど土地に根ざした定例の図柄みたいのが、私の子供の頃でもあったような気がする。

でも、どういうのか、私の子供の頃でさえ「当たり前すぎる」みたいな感じで、殊更に注目されない内に、今となっては日本建築そのものが無くなって行ってる気がするんだわ(^_^;)。。
ま、ちょっとそういう視点も挟んで、この後も「旧村川別荘」の続きを見て貰えると(^^ゞ。

これは、南側の庭から見える竹林とその遠景。今はズラーッと住宅地が建っているが、実はこのスグ傍……ちょうど車が通ってる道路の辺りまで、前は手賀沼が眼下に見えていたんだって(^^ゞ。

江戸後期の建築「我孫子宿本陣」南側(パノラマ3枚・ほぼ180度)

←今度はお隣、さっき門から入って最初に出会った建物の方に入る。
今の「我孫子宿本陣」を取り寄せた後、大正時代の終わりの1923年、関東大震災で都心が大きな被害を受けた事を教訓に建てられたのが、この「新館」。

こちらは大正から昭和に差し掛かる1925年、東京帝大が平壌で行なった朝鮮古蹟調査に堅固が随行し、そこで見た建物の印象を元にデザイン。昭和2(1927)年に建設。

大震災の教訓からコンクリートを基礎としているわけだが、コンクリートを取り入れたばかりの時代の建築としても貴重で、銅板葺きとなっている。

内部、南側のガラス窓の部屋(パノラマ4枚・180度以上)

↑沼を見下ろす南側にはガラス窓を広く取り入れ、床には寄木モザイクを配したモダンな作りとなっている。↓

部屋ごとに寄木の組み方が微妙に異なるトコなんか、お洒落だよね(^^)

堅固の趣味は釣りで、手賀沼の景観を深く愛し、昭和初期の手賀沼干拓計画には、同じ我孫子在住のジャーナリスト杉村楚人冠(そじんかん)、嘉納治五郎らと共に環境保全を訴えた。

このすぐそばに「嘉納治五郎・別荘地」と「杉村楚人冠邸」「楚人冠公園」があるが、「杉村楚人冠邸」は非公開。

息子の堅太郎になると、物心ついた時から、この別荘を知っていただろう(^^ゞ。父とともに釣りを楽しんだかもしれない。
この堅太郎も西洋史学を専攻し、1930年、東京帝大の西洋史学科を卒業している。

父の堅固が1935年、名誉教授となり、西洋史学専攻。
息子の堅太郎は、1940年、やはり東京帝大の助教授を経て、1945年、東京大学の教授となった。

父の堅固は終戦の一年後、1946年に死去。
著作に「希臘(ギリシャ)史」「西洋上古史」「世界改造の史的観察」「米国と世界大戦」など多数を残している。

この別荘は、その後も堅固の息子、村川堅太郎が引き継いだ。
堅太郎も1963年、東大の名誉教授となっている。「地中海からの手紙」「古典古代游記」「ギリシャとローマ」「オリンピア」「古典古代の市民たち」「村川堅太郎古代史論集」など多数の著作の他、高校の世界史の教科書を書いた。

平成3(1991)年の堅太郎没後、別荘は国に物納されたが、自然環境を残し、別荘地として開けた我孫子をしのぶ施設として、文化財価値の高さが認められ、平成13(2001)年に我孫子市が購入して保存に務めている。

北側・玄関から入った最初の部屋
燈篭に使われてたという

←燈篭の彫り細工
↑「夜学」の掛け軸
(中島廣足 筆)

バーナード・リーチのデザインによる椅子→

「夜学の掛け軸」には、
「皆人を寝よとの鐘は文机にわが打ち向かう始めなりけり」
と書かれていて、これは学者が夜になると勉学にいそしんだ事を言っている。つまり「夜も寝ないで学問に励もう」という事だね(^^ゞ。

中島廣足(ひろたり)(1792〜1864)も肥後・熊本生まれの国学者で、村川堅固の遠縁に当たる。藩校時習館の国学師範として多くの藩士を教育した。

また右の椅子は、堅固の村川家のご遺族から寄贈されたもので、陶芸家バーナード・リーチが自然の木目を取り入れてデザインし、生活と自然と芸術をマッチさせた作品。

バーナードリーチは明治の1887年に香港で生まれたイギリス人で、1909年に来日し、上野桜木でエッチング教室を起こして、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦(やなぎ・むねよし)といった、いわゆる「白樺派」と親交を結び、6代目・尾形乾山に師事して楽焼の免許皆伝を許された。

さっき話した通り、柳宗悦(やなぎ・むねよし)が嘉納治五郎と親戚になる事が縁だろう、やはり誘われて、ここ我孫子にある、柳宗悦の別荘「三樹荘」に大正5(1916)年に移住し、窯を築いて陶芸に打ち込んだ。

バーナード・リーチの椅子は、志賀直哉や濱田庄司(陶芸家)が所有しているが、数が少ないため貴重で、この椅子なども、自分のデザインを我孫子在住の宮大工・佐藤鷹蔵に指示して製作させた事がわかっているが、村川堅固じしんは別に「白樺派」ではないので、どうやって入手したのかは不明という事だった(^^ゞ。

ちなみに「白樺派」というのは、学習院の同人誌から出た名称のようで、特に何らか思想的なベースは伺えないが、我孫子には、このすぐ傍に「志賀直哉邸跡」や「白樺文学館」「柳宗悦の別荘・三樹荘」がある。

「志賀直哉邸跡」には書斎が残る(木10〜12時・日10〜14時)。
「白樺文学館」は白樺派に関する専門館(10〜17時・月休)。
「柳宗悦の別荘・三樹荘」は非公開なので、見る事はできない(^_^;)。

その後リーチは、1919年に窯が焼失してしまい、我孫子を離れて、翌1920年に帰国。
英国南西部コーンウェルの港町セントアイヴィスでリチポッタリー(勢陶所)を設立し、英国と日本の伝統勢陶技法を融合させた独特の作品を製作。さらに柳らの民藝運動を世界に紹介した。

我孫子では戦後の1974年にリーチの顕彰碑が手賀沼公園に建てられ、リーチは1979年に死去。



<子の神「延寿院」・子の神古墳>

旧村川別荘のお隣が、子の神(大黒天)の「延寿院」。

隣に別荘地を持っていた村川堅固が、手賀沼の干拓に対して環境保護を訴えた話を書いたが、この隣接地にある子の神(現・延寿院)境内も樹木が多く、湧水のあった跡があったという。

ちょっと風変わりな山門から
ちょいとお邪魔です〜(^^ゞ

延寿院」本堂
左右の狛犬の……

眺める方角は……
ジャーン! 手賀沼じゃあぁぁ〜!!

昔は手前の街並みも沼地だったんだろうね(^^ゞ。今は狛犬チャン達が「眺めている」ように見えるが、昔は洪水とか嵐や外敵を「睨みつける」感じだったのだよ、きっと(笑)。

このお寺は「子の神大黒天」とも言われ、「足(の病気)に効く」事で祈願された。
「子の神」は子年の「子(ね)」じゃないかな。また大黒を「黒」と見れば、五行の方位としては「北」だから、十二支で言えば「子(ね)」の方角に当たる。北の臓器(つーか経絡)は「腎経」、五体に当たれば足という事になるかな?(^^ゞ

もっとも一般的には、大黒さんがネズミをお使いにしている(お米の神様だから?)とも言われる(笑)。
我孫子にも「七福神巡り」があるのか、本堂の前に七福神のレリーフがあった。

ここも文学色ゆたかな桜の名所として知られ、水原秋桜子が吟行したという。
またこの神社に詣でるための道標(子の神道標)が、ここに続く古道に配置されていた。

ご覧の通り、今は沼地は奥に下がっているので、そこに「手賀沼遊歩道」というのが設けられ、市民の散歩道になっているが、江戸時代は「子の神道」と呼ばれたここまでの古道と、そのさらに沼に近い「ハケの道」というのがあって、沼の景観を楽しみながら歩く道だったのだろう。

本堂の前を横切って過ぎると、「子の神古墳」に行ける。

途中に「旧村川別荘跡」の屋根
新四国相馬霊場
本堂脇に「子の神」を祭祀

「新四国相馬霊場」というのは、四国の霊場巡りとも相馬氏とも直接は関係ない(^^ゞ。
茨城県の取手と千葉県の我孫子・柏に88ヶ所の札所があって、これを巡る事が江戸時代の流行だった事から来ているようだ。 この「子の神」は、その38番に当たるという。

また「子の神」を祀っているのだろうと思うが、本堂の脇から、古墳の前に祀ってある「子之大権現」を参拝する所があって、古墳はそこからも覗き見られる(^^ゞ。

この裏に古墳(パノラマ2枚)

これが「子の神古墳(パノラマ3枚・ほぼ180度)

正確には「子の神古墳群」と言われ、ここ以外にも手賀沼を見下ろす寿の台地に幅広く分布しているのだろうと思う。
一基の前方後円墳と13基の円墳からなる群集墳で、500年代の初頭から末にかけて造られたと推定される。
いずれの古墳も埴輪を持ち、市内でも代表的な古墳群である。

以上関連事項は、
2007年9月<手賀沼温泉「満天の湯」(爆)>以降




<かっぱの碑・牛久藩陣屋跡>

行ったのは我孫子と同日だが、ここからは県境の利根川を北に越えて茨城県となる。
我孫子周遊の後、亭主が地図を見て牛久沼に目をつけたのは冒頭に書いた通りなんだが、牛久沼は地図で見るだけでもかなりの広さ(^_^;)。

何を目標に行けばいいのか判らなかったので、車で行く先々を地図で追い掛けながら、「ウナギって書いてある(゚.゚)」とか「かっぱの碑って何だろう(゚.゚)」とか助手席で言いながら、「ま、じゃ、そこ行こうか」みたいなノリで走行(笑)。

「かっぱの碑」がある辺りを探していたら、急に目の前に「牛久城跡」という方向案内版が出て来た。
名前は(ウッスラ)聞いた事があるが、何しろ牛久沼は広いから、「こんな所で出会うとは(゚.゚)」という思い(笑)。

実際には「かっぱの碑」に行く道から、ほんのビミョーにズレていた(つまり道を間違えた)わけだが、まさに「失敗は成功の基」とやら(笑)。

まずは「かっぱの碑」のある場所は、地図F。←に至る前は国道6号線を通って、牛久沼と出会う。↓

「おおおおお! 沼だ!」と叫ぶ(笑)
場所は沼の東「鶴舞橋」付近

沼を過ぎた所で左折、沼沿いの道を行くと、途中から「かっぱの碑」と書かれた方向案内が出て来る。

ややもすると山道に行っちゃったり(笑)
現地の案内図(不鮮明だけど)

左下の「現在位置」とある辺りが「かっぱの碑」、そしてその右下にある凸マークが「牛久城跡」という位置関係。
周辺には他に、正源寺、八坂神社、愛宕神社、恵林寺城跡、三日月橋付近のアヤメ園などがあるようだ。

到着。後ろは竹林と梅花・春の風情(^^)(パノラマ2枚)

そして正面(沼側)、「かっぱの碑」広場(パノラマ3枚・ほぼ180度)

↑この左に行くと画家「小川芋銭」の邸宅跡、右は「かっぱの碑」のある小さな広場。まず右に行ってみる。

河童碑
小川芋銭の描いた、かっぱの絵の碑

森の中にはスダジイ(ブナ科)の巨木があった。樹高15m 樹幹周り400m 樹齢推定400年。
この一帯にも、江戸期から明治にかけての1619〜1871年、牛久藩の陣屋があり、この大きなスダジイの樹が目印だったかもしれないね(^^)。

今度は左側に行こうとした所に、「改善一歩」と書かれた道標があり、説明版によると、大正11(1922)年、城中青年会(矯風会)が牛久村の道筋に立てる計画をしていたら、画家・小川芋銭が「長くもつように」と石柱を寄付してくれたのだ。→
感激した青年たちは、芋銭の名を石柱に刻もうとしたが、芋銭が「名を入れるより」と勧めたのが「改善一歩」(善い行いに歩む)という言葉だった。

では、「改善一歩」を踏み締めながら、今度こそ左の方向に行ってみよう( ̄^ ̄)。



<小川芋銭記念館「雲魚亭」>

↑がある(^^ゞ。
最初「かっぱ伝説がある(゚.゚)?」という興味で来たのだが、今度も又々、近現代の文化人シリーズとなった。

ここが小川芋銭の邸宅跡(パノラマ3枚・ほぼ180度)

でも「かっぱ伝説」もちゃんとあるんだよ(^^ゞ。
小川芋銭の邸宅の庭に、お話を伝える案内板があるのだ!

←この松は「カッパ松」と呼ばれ、昔、村の若者が沼のカッパに引き込まれて、溺れ死ぬ事が多かったので、村で一番の屈強な若者が、カッパ退治にやって来て、沼のほとりで昼寝をしているカッパを発見!

陸へ引き上げ、この松の木にくくりつけて殺そうとしたら、カッパが激しく泣いて詫びたので、二度と悪事をしないと約束させ、放してあげた。

以来、沼で溺れる人はなくなったとさ(^^)。

この庭園と邸宅は、近代日本画壇の巨匠・小川芋銭(1868〜1938年)の最晩年の物で、今も大事に保存され、室内では芋銭の絵や画集などが閲覧できる。(撮影禁止)

では牛久沼の見える庭から
邸宅跡「雲魚亭」に入ってみよう(^^)

小川芋銭は牛久藩士の子で、生まれた場所も江戸の牛久藩邸(東京の赤坂溜池)だったが、生まれた年はちょうど明治元年(1868年)だったため、芋銭じしんは武士として育てられたわけではないようだ。

この牛久の地に住んだのは、明治4(1871)年で、廃藩置県によって父が旧藩地のこの地に帰農したため、芋銭もともに移住し、当地の小学校や東京の小間物屋で修行など経て、桜田小学校で勉学の後、明治14(1881)年から、13〜17歳まで、彰技堂において画を学んだ。
生来、体が虚弱で力仕事は向かなかったが、学業は優秀だったという。

画才も早くから認められ、多少の収入も得たようだが、生活が成り立つ程ではなく、明治26(1893)年にこの地に帰農。
しかし献身的な妻の「こう」が芋銭の分まで働く傍ら、5人の子供まで養育した事もあって、絵は描き続け、郷土の伝説に登場する「河童」をはじめ、「水の精」「山の精」など幻想的な世界を数多く描き、独自の画境を開くに至った。

庭の水仙、牛久沼を背に紅梅の通路を通って(^^)

この辺りは、かつて牛久藩の陣屋(1619年〜1871年)の一部でもあり、小川芋銭も四季を通して詩情豊かな沼畔に望むこの地をこよなく愛した。
また芋銭は、画のほかに書や俳句にも通じ、絵を描く芭蕉とも称されており、各地を訪れ、不朽の名作を残した。

当時から使われていたのか、入ってスグ井戸の跡。
そして「雲魚亭」→

当時芋銭は、長女の婚家・弓削宅に滞在していたが、芋銭の最晩年・昭和12(1937)年9月19日、夫人「こう」と芋銭の長男により、この邸宅が新築され、画室兼居室となったため、同月末よりここに移り、「雲魚亭」と命名。

以後、老齢にむち打ち、傑作「小六月」や「涼気流」などを含む60余点に及ぶ古稀記念新作展の制作、また「河童百図」の準備などにあたったが、翌13(1938)年1月31日、入浴中に脳溢血で倒れ、しばらく静養の後、同年12月17日に死去。近くの菩提寺「得月院」に葬られた。

先ほど行った「かっぱの碑」は昭和26(1951)年(13回忌だろうか)、小川家をはじめ、敬慕する人々によって建立されたもので、ともにあったレリーフには、芋銭晩年の作である「河童図」と「誰識古人画龍心」の文字が刻まれている。

さらに昭和63(1988)年、小川芋銭生誕120年記念祭にあたり、芋銭三男、故小川知可良の遺志により、この邸宅跡「雲魚亭」が、小川芋銭記念館として当市に寄贈された。



<牛久城跡、1>

さて「牛久城跡」の場所だけど、ウロウロしてる内に着いてしまったからハッキリしないのだが(笑)、↑で見た標識によれば地図G←この辺りではないだろうか(^_^;)。。

牛久沼と6号線の間を、沼に近すぎず遠すぎず道路を行き来していると、「かっぱの碑」などと一緒に「牛久城跡」なる標識が出て来んのよ(^_^;)。その標識から先も多少は迷うんだけど、人家に入らず、行き止まりにもメゲずに探すと、どんな風にか行き会えると思う。
ネット上で行った人の記述とか見てると、この説明とそう大きな違いは無さそう(笑)。

現地の城跡内部の案内図(大竹房雄氏作図)

↑この図だと上の道路を来たのではないかと思うが、まず手前に「三の丸」の茂みが突き出ている。↓

道路に面した「三の丸」の茂み(パノラマ3枚)

城跡の内部に入るには、この茂みの横にちょっとした広場と言うか、草原と言うか空き地とでも言うか、何しろこんな場所があって→
(百聞は一見にしかずとやら:笑)

また左の竹林に埋れるように「牛久城跡」という上の地図がついた案内版がある。

空き地はいつも刈り取られてるか判らないが、轍(わだち)と言うか、凹みを歩道と思って歩く内に、徐々に森林に分け入り、すぐ左に堀の跡のような窪みが見えて来るので、「城跡だ」と判ると思う(^^ゞ。

二の丸の裏の堀(だと思う)↓
さらに先に進む→

森林の中に入りきると、左側には大きな堀の跡が続けて出て来る

長い堀跡を上から撮影(パノラマ3枚・ほぼ180度)

先に出した城跡内部の図面によれば、いきなり曲輪跡に出るのではなく、一度仕切りの土塁があるのか、ちょっと森の先に進んだ所から二の丸との区切りの堀と土塁が見えて来るようだが、だいたいそんな具合に思えた。↓

今度は堀の向こうの土塁を写してみる(パノラマ3枚・ほぼ180度)

散策路はやがて自然と左に曲がる。この先にいわゆる「虎口」のような入口が出て来る。

パノラマ2枚

では、続きは次回!

次回は、主にこの「牛久城跡」の続きから、城の裏手にある社を巡り、牛久沼の水辺にも出てみる。
その後、梅と桜の季節をお届けの後、4月末に行った増尾城(千葉県柏市)近くの神社(古墳跡)にも行ってみたい。

<つづく>

2008年06月26日
 
     




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